宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

唐突な花巻農学校辞職

2017年01月04日 | 常識でこそ見えてくる






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  唐突な花巻農学校辞職
 そのようなおかしいと思われることの一つに、「羅須地人協会時代」へのいわばスタート台とも言える、花巻農学校の辞め方があるのでそのことをまずは検証してみよう。
 巷間、
 賢治は生徒たちに対しては「農民になれ」と言いながらも、自分自身は俸給生活をしているということには当然矛盾があるので、実際に農民になって生徒たちに範を垂れようとして賢治は花巻農学校を辞めた。
などと言われていて、これが花巻農学校を辞めた止めた理由の「通説」のようだ。しかしながら、あれっ、もしかすると賢治が同校を辞する際に退任式も離任式も行われていなかったのではなかろうか、という疑問が私に湧いた。
 そこでこのことについて調べてみた。まず、佐藤成氏の著書『証言宮澤賢治先生』には、
 賢治はこうして、花巻農学校を去った。…(筆者略)…白藤慈秀もまた退職した。なぜか離任式はなかった。
    <『証言宮澤賢治先生』(佐藤成著、農文協、255p)>
とあった。同じく同氏の『宮沢賢治の五十二箇月』にも、
 こうして賢治は、花巻農学校を去った。なぜか離任式はおこなわれなかった。
    <『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、343p)>
とあった。どうやら、私が虞れていた通りだった可能性がある。
 そこで次に、賢治の退任式等が行われていたかどうかを確認をしたかったので、花巻農業高等学校の前身は花巻農学校だから、平成25年11月5日に同高校を訪ねた。そして、『大正15年の1月から3月までの行事を教えていただけないでしょうか』とお願いしたところ、翌日同窓会の担当の方から、『当時の学校行事については60周年記念誌等で調べたが、国民高等学校の開校式及び終了式しか記述がなく、その間の記述や農学校自体の終業式の記述もない』という旨の回答の電話をいただいた。よって、やはり賢治の退任式等はほぼ行われていなかったのだと判断できた(本来ならば『校務日誌』や『教務日誌』等は永年保存のはずなので学校では保管していると思われるが、そこまでの開示請求は諦めた)。
 そしてその実情については、常識的に判断して、
〈仮説2〉宮澤賢治の花巻農学校の辞め方は余りにも唐突であり、そのせいもあって賢治の場合には離任式等はなかった。
という仮説が定立できるであろう。
 では次に、この仮説を検証してみよう。この件に関しての教え子や同僚の次のような証言等が見つかった。
(1) 菊池信一 
 この賢治の退職に関しては、菊地信一も次のように不思議がっていたという。それは、信一が友人の板垣亮一から『(賢治は)農学校をどうして退職したんだ』と訊かれた際のその答であり、次のようなものだ。
 岩手国民高等学校の舎監、高野主事と農業経営なのか学校経営なのか分からないが、議論したことが原因のようだ。国民高等学校の卒業式が三月二十七日であったが、同日退職しているよ。この年の四月から、花巻農学校が甲種に昇格して生徒が増加するのに、退職するのはおかしいと思っていた。
    <『賢治先生と石鳥谷の人々』(板垣寛著)、25p>
(2) 堀籠文之進
 森荘已池の『(賢治の)こんなにたのしい時代が、どういうことで終わりになったのでしょうか』という問いに対して、堀籠は次のように答えているという。
 いろいろな説もあるのでしょうが、俸給生活にあこがれる生徒たちに、村に帰れ、百姓になれとすすめながら、自分は学校に出ていることに対して、矛盾を感じたことからでしょう。大正十五年三月の春休みに入ってから、
 ――こんど、私学校をやめますから……とぽこっといわれました。学校の講堂での立ち話でした。急にどうして、また、もう少しおやりになったらいいんじゃないですか、といいましたら、新しく、自営の百姓をやってみたいからといわれました。
   <『野の教師 宮沢賢治』(森荘已池著、普通社)、231p~>
(3) 白藤慈秀
 白藤は『こぼれ話 宮沢賢治』において、次のように述べている。
 宮沢さんはいろいろの事情があって、大正十五年三月三十一日、県立花巻農学校を依願退職することになった。あまり急なできごとなので、学校も生徒も寝耳に水のたとえのように驚いた。本意をひるがえすようにすすめたけれども聞きいれられなかった。科学、文学、芸術総てに亘ってすぐれた宮沢さんに去られることは学校としても痛撃であり、また生徒にとっても良師を失うさびしさは抑え難いものがあった。常に信頼の深かった先生に別れる生徒達は、幼児の慈母に別れる思いであった。退職の理由は何であるかとといただす生徒も沢山居たが、いまの段階では、その理由を明らかに話されない事情があるからといって断った。
 <『こぼれ話 宮沢賢治』(白藤慈秀著、トリョウコム)、67p>
(4) 柳原昌悦
 柳原は『花巻農業高校80周年記念誌』所収の座談会「宮沢賢治先生を語る」において次のように語っているという。
 (大正15年の)3月だったろうと思いますが、職員室の廊下で掃除をしていたら、
「いや、おれ今度辞めるよ」
とこう言って鹿の皮のジャンパーを着て、こう膝の上にこうやった、あの写真の大きいやつを先生からもらいました。それっきりで学校では先生の告別式のようなものも無ければ、お別れの会も無く、そういう先生の退職でした。
       <『花巻農業高校80周年記念誌』、501p>
 よって、このような証言等があることから先の〈仮説2〉の妥当性はさらに裏付けられる。するとおのずから、
 賢治の花巻農学校の辞め方は、退任式等さえも行われなかったほどの唐突なものであった。
が成り立つであろう。
 したがって、ここまでの考察によってもそうなのだが、〈仮説2〉の反例は今のところ存在していないから、この仮説は今後この反例が見つからない限りという限定付きの「事実」であるとしていいことがこれで導かれた。
 どうやら、賢治は年度末ぎりぎりになって突如農学校を辞めたということであり、それは生徒に対してだけではなく学校当局(校長)に対してもそうだったということになるだろう。そしてもちろん、このような辞め方は客観的に見れば極めて身勝手な行為である。実際私の高校の現場経験からいえば、この賢治のような辞め方は教員として許されないことの最たるものの一つであった。
 そういえば、賢治の教え子菊井清人の、
 先生は、夜家を出て盛岡まで歩行し、一睡もせず、翌朝一番の汽車で帰って、授業をすることがありました。何故そんな無理をするのか。私達には不可解でしたが、しばしばそういうことをなさいました。
   <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)、150p>
という回想があることを思い出した。この「何故そんな無理をするのか……しばしばそういうことをなさいました」に従えば、少なからぬ生徒達がそのような賢治の在り方に疑問を抱いていたであろうことを否定できない。それはもちろん、まずは生徒のことを第一に考えて毎日を送るのが教師の努めであり、それに反するこのような賢治の「無茶」は常識的には褒められた行為ではないからである。そこで冷静かつ客観的に考えてみれば、そのような「無茶」は生徒のみならず、同僚からもあまり歓迎されるものではなかったはずだ。したがって、賢治がこのような好ましからざる辞め方をしたのはそのの延長線上にあったということもあながち否定できなかろう。
 そしてそれゆえにこそ、賢治は後々この辞職の仕方を振り返って己の身勝手な辞め方を恥じ、例えば昭和5年4月4日付澤里武治あて書簡(260)において、
 但し終りのころわづかばかりの自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度になってしまった。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)>
と悔いることは十分にあり得たと思うし、整合性もある。つまり、この退職の仕方は社会通念上からは普通許されない唐突な辞め方であったということを、賢治自身が示唆しているとも言える。
 よって、
 賢治は花巻農学校の教諭辞職に当たって、周到な準備も綿密な計画もあったわけではなく、まして将来的な展望があって辞めたということではなかった。
ということにもなりそうだ。それは、大正15年4月4日付森佐一あて書簡(218)中の、
 もう厭でもなんでも村で働かなければならなくなりました。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)>
という一言がまさに雄弁に物語っていそうだ。
 視点を変えてみれば、常識的にはおかしい賢治のこのような辞め方は、彼の性向の一つである「不羈奔放さ」がまさに現れた一つの結果だったとも言そうだ。あるいは、賢治のこの辞職の理由については、少なくとも「通説」でいわれているようなものではなく、私達には未だ知らされていない理由が他にあったと考えた方がいいのかもしれない。
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