みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

たしかに小倉には「粗雑な推定」があった

2019-02-14 12:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

吉田 それでは小倉自身が「粗雑な推定を敢えてした」と言っている部分はどこか。それはもちろん、少なくとも橙色やライム色が付かなかった残りの部分にあることになる。そこで、残りの部分の中で僕からすれば「粗雑」と思える個所に下線と番号を付けてみると下線部分<①>~<⑦>の計7個所があった<*1>。
 まず驚くのが下線部分<⑦>だ。「外面菩薩内面如夜叉」という痛烈で辛辣な言葉を用い、しかもこれは前段の推定「この事件は、…賢治について悪口をいろいろ觸れ廻つたらしい」に対しての小倉自身の評価に過ぎないわけだから、そのことをこのようにを活字にしてしまったならば、『小倉豊文は高瀬露に対しては研究者としての立場を逸脱している』などと誹りを受けてしまうのではなかろうかということを、僕はついつい危惧してしまう。
鈴木 そうか、やっと私にも少しずつ見えた来たぞ。となれば、露を『最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが』(『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』)と語っている高橋慶吾からすれば当然不満を抱くこともあろう。とりわけ、「粗雑」すぎるこの下線部分<⑦>については慶吾から批難される可能性が極めて大だろう。
 そして一方、それほど極端ではないにしても、森・関の両著に述べられていないことでなおかつ「粗雑」と思われる個所としての 下線部分<①>~<⑥>の下線部分には小倉らしからぬ表現がある。特に、「ヒステリック」とか「咆哮」とか「狂想曲」という表記は森も関も自身の著作ではしていないはずで、これは小倉独自のものと考えられるから、慶吾のみならず私だって極めておかしいと思う。
吉田 そうなんだよな。小倉は研究に対してはいつも厳しい態度で臨む<*2>「考証的な文化史学の徒<*3>」だったはずだから、かなりの程度検証した上で論じているだろうと思っていただけに、「粗雑な推定を敢えてした」と語っている小倉の姿勢は僕にとっても極めて意外だった。
荒木 ということは、もしかすると小倉は「乃至兩氏の實話」とも言っているのだから、これらの下線部分<①>~<⑦>は森や関から直接聞いたとでもいうのだべが。
吉田 それはあり得るが、もしそうであったとしても、下線部分<②>~<⑦>は皆「粗雑な断定」でこそあれ「粗雑な推定」ではないから、小倉の「粗雑な推定を敢えてした」という言に従えば、その候補は唯一下線部分<①>しかない。したがって、当然それはどう転んでも当選するので、「敢えてした」という粗雑な推定は<①>でしかない。
荒木 あっそうか、候補者は一人だから無投票で当選するんだ。
鈴木 なるほど。かといって、下線部分<①>であったならば取りたてて慶吾が批難するほどのものでもなけれな、批難されて「取消し」をするほどのことでもなかろう。取消すのであれば、それよりもはるかに下線部分<②>~<⑦>の方だろう。
 もちろん、そうなるとこれらは「粗雑な断定」だから小倉の言っていることとは矛盾するけども…。
吉田 ある面では、森や儀府のゴシップ記事のような扱いにも辟易とするが、この小倉の「粗雑な推定と断定」にもそれと似たところがないわけでもなく、僕はとても残念だ。
荒木 どうやらこのことに関しては、小倉は客観性も冷静さも共に失っていたようだから、〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」〉はさておき、少なくとも小倉が活字にした「露の強引な単独訪問はその後も続いた」や「露は賢治を悪しざまに告げ口した」は、果たして事実だったかどうかはかなり危ういな。
鈴木 それはそうだよ。慶吾から批難されたということで、その後、「手帳複製版解説では一応全面的に取消した」と言っているくらいなのだから。
荒木 一体、この時の小倉に何があったんだべが? それにしても、小倉がこんなに「粗雑な推定」をしていたという事実に、俺はただただびっくりだ。
吉田 しかしあの小倉が、よりによって自嘲的な「粗雑な推定」という表現をし、続いて次に今度は一転して「敢えて」というような開き直りともとれる表現をし、しかも実際に「取消し」たというわけだ。となれば、「一応」と書き添えてはいるものの、小倉の内心は屈辱と悔しさとで一杯であったろう。

<*1:註> 「プリント」を再掲すると以下のとおり。
 大正十五年四月、花巻郊外の櫻で自耕自炊の獨居生活をはじめた賢治は…(略)…農業技術の指導講話をしたりしはじめた。その頃、協會員の一人の紹介で、花巻の西の方の村で小學校教師をしている若い一人の女性が賢治の家に出入りするようになつた。彼女はその勤めている學校で賢治が農業の指導講話をした時に、はじめて彼を見たのである。當時田舎には珍しいクリスチャンであつたと言う彼女であるから、①恐らく新しい科學や藝術にあこがれていた女性であり、それ故に、賢治のはじめた仕事にも深い關心を抱いたであろうことは當然であろう。更に想像をたくましくすれば、當時田舎には數少ない高等教育を受けていた賢治であり、田舎はもとより都會を含めて日本にも珍しい科學と藝術の天才であり、世界でも珍しい仕事をはじめた賢治であり、當時三十一歳の獨身生活者であつた賢治であるから、彼女の關心は賢治の仕事よりも賢治その人にあつたのであるかも知れない。
 とにかく、②クリスチャンらしい「聖女」として、新しい科學や藝術を探究する「弟子」として、賢治と彼女との交渉ははじまつたのである。男だけの集まる協會であるから、一人の女性のいることは室内の整備にも、劇の出演者に女の必要な場合にも便利であつた。賢治もはじめは「しつかりした人だ」と協會員にも語つてよろこんでいたらしい。ところが、この女性は來る每に花や食物やいろいろの品物を持賢治もつて來るようになつた。賢治は他人に物をやつたり御馳走したりすることは好きだが、他人からそうした心配をされることは大きらいであり、そうした行為には必ず過分の返禮するのを忘れなかつた。こうした賢治の片意地と思われる程の「義理堅さ」については、實に多くの逸話があるが、こゝでは割愛する。とにかく賢治はこの女性に對してもその都度何かしらきつと返禮していた。しかし、③彼女の贈物と訪問は加速度に激しさを加え賢治の寢ている内に訪ねて來たり遠いところを一日に二度も三度もやつて來たりするようになつた。賢治はほとほと困つてしまつた。「本日不在」と貼紙をしたり、顏に墨を塗つて會つたりしたこともあるという。だが、こうした賢治の態度は益々彼の女の彼に對する思慕愛戀の情を燃えさからすばかりであつた。賢治は返禮の品物に行きづまつたのであろう。ある時は布團をお返しにおくつたこともあるという。こうしたことは、賢治にとつては全く他意のあることではなかつたのであるが、常識的にそうは思われない。彼女はその勤めている村に新しい家を借り、世帶道具を調えて、いつでも彼との結婚生活がはじめられるように設計もしていたという。
 ある時、近郊の村の人々が數人、賢治の家―羅須地人協會―を訪ねた。賢治はその人たちを二階に招じて談笑していた。その時、この女性はすでにそこに來ていて、しきりに台所で何か體を動かしていた。間もなく彼の女はその手料理のライスカレーを二階の客の前に運びはじめた。全く新家庭の新婦人振りである。賢治はほとほと困つてしまつて「この方は○○村の小學校の先生です」と人々に紹介した。人々はぎこちなく默つて彼と彼の女とライスカレーをぬすむように見まわした。そして、とにかくライスカレーを食べはじめた。しかし賢治だけは食べない。彼女は勿論彼にもたつてすゝめた。だが彼は「私にはかまわないで下さい。私には食べる資格がありません」と答えて頑として箸をとらなかつた。彼女は④ヒステリックに身體をふるわせ、顔面蒼白になつて物も言わずに階下にかけ下りてしまつた。と間もなく、荒れ狂う野獸の⑤咆哮のような、オルガンの音がきこえはじめた。賢治が注意深く外に音のもれないように工夫し、毎夜人がねしずまつた頃を見計らつては練習していたオルガンを、その女性が無茶苦茶にやけに鳴らしているのである。彼は急いで下に降りて行つて言つた。
   「みんなひるまは働いているのですからオルガンは遠慮してください。止めて下さい。」

 賢治にしては珍しく高くてするどい叱聲であつた。しかし、オルガンの⑥「狂想曲」は中々やまなかつた。再び二階に上つて來た賢治の顏の表情は押え切れない怒りに燃え、蒼黑くさえ見えて人々はどうにもならぬ困惑を感じたということである。
 この事件は、昭和三年の八月、彼が病氣で倒れたのを機會に自然に終末をつげたが、熱中した戀愛が成就しなかつたこの女性は、その後、賢治について惡口をいろいろ觸れ廻つたらしい。
⑦無理もないことであろう。「外面菩薩内面如夜叉」と言う佛教のいい古された格言がかなしく思い出される。
 この事については賢治もながく隨分氣にかけていたらしい。その最期の一年間ばかり前、一時病氣が輕くなつていた頃、彼は關登久也氏を訪ねて、知人が自分をいろいろ中傷することについて、事のいきさつを語り、了解を求めたと言う。
こんな、自分の言動について他人に了解を求めるようなことは、賢治の生涯には絶えてなかつたのに――。

 以上の事件に關しては、私は森荘已池氏の「宮澤賢治と三人の女性」及び關登久也氏の「宮澤賢治素描」の記事、乃至兩氏の實話によつてその大體を述べただけである。この女性が果たして「聖女のさましてちかづけるもの」であつたかなかつたか。それは神のみぞ知ることであろうが、この詩を讀む度に思い出されるまゝに記しておく。<『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社)101p~より>
…プリント終わり…
 なお、色の違いは以下のとおり。
   ・『宮澤賢治と三人の女性』からの引用と思われる部分: 〝橙色文字部分
   ・ 森と関の両著から     〃         : 〝ライム色文字部分
<*2:註> 「賢治像・賢治作品の評価をたどる」という座談会において、次のようなやりとりがあった。
司会 堀尾さんの他には、戦争中から宮沢家を訪れていた小倉豊文さんが非常に実証的な取り組みをなされていますね。
続橋 小倉豊文さんは「農民は口を開かないんだ。親しくなって農民に口を開かせてみろ。宮沢がどんなに恨まれているか」というのを口を酸っぱくして小倉豊文さん話をしていた。そこまで調べないとだめだ、と。
             <『賢治研究 70』(宮沢賢治研究会)175pより>
<*3:註> 小倉は次のように言っていた。
    考証的な文化史学の徒であり、文学のアマチュアにすぎない私が…
             <『文学 第三十二巻第三号』(岩波書店)43pより>
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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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