みちのくの山野草

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小作人となった甚次郎

2019-02-13 10:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 そして、甚次郎はこう続ける。
 百姓姿 高農生活の名殘りであるサージの制服やカーキ色の作業服、制帽などを清算し、黑木綿の股引、縞のハッピ、粗織紺の前掛になつて、制帽はタオルと蒲の稈で作つた山刀切帽にかへて、全く活動的な農裝となつた。その姿は町へ行くにも變りはない。ハンバキ(脚絆)をはき、藁靴をはいて活動を始めた時の嬉しさと、父から六反歩の旱魃田を許された時の喜びは何と言つて言ひ現してよいかわからぬ。
 かうして私は歸農の人となつたのである。
           〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)10p〉
 ということで、この記述に従えば、甚次郎は賢治の「訓へ」どおりに六反歩の小作人になった。それも旱魃田のである。なお、このことに関して安藤玉治は次のように述べている。
〝田圃の経営は、使用人と共にやれ〟という父。
〝わたし一人でやります〟と主張する息子。
 押し問答の末、一部の作業に使用人の手を借りる、ということで決着が付けられた。

 松田甚次郎は早速、自宅から数百メートルはなれた場所に、三坪の小さな小屋を建て、羊を飼う生活から小作人生活に入った。
 労働用の股引と半纏を着、前掛に頬かむりして、町へも役場へも、山へも、どこへでもそのままのいで立ちで立ち歩く。
             〈『「賢治精神」の実践 松田甚次郎の最上共働村塾』(安藤玉治著、農文協)48p~〉
 私は、この『「賢治精神」の実践』を読むまでは、「自宅から数百メートルはなれた場所に、三坪の小さな小屋を建て、羊を飼う生活から小作人生活に入った」という事などは知らなかったから、これによって、安藤玉治はしっかりと取材した上で同書を著しているということを覚った。
 しかも、甚次郎が帰農した頃の出立ちの写真が『土に叫ぶ』に載っていて、
【農装の著者】

           〈同〉
というようなものだった(いわば先ず形から入ったとでも言えるのだろうか)。私はこの出立ちを見て、甚次郎が昭和2年3月8日に賢治から「小作人たれ」と強く「訓へ」られたとおり、その3月に卒業したならば故里に戻って早速小作人になったのだと、たしかに納得できた。

 そして同時に思い出すのが、羅須地人協会員伊藤忠一の次の証言だ。
 (賢治が)屋敷を測量して地形を取つたのは、大正十五年四月四日であつたらしい。それから屋敷の内の荒土を掘つたのは四月中旬以降だ。それから十五年四月廿三日に、始め<ママ>て詩というものの説明を聞いた。その頃は獅子ヶ鼻(賢治在住の丘から南にみえる北上川の下流)の川原を例のカーキ色の服の上に「けら」を着てよく歩いたものだ。
               <『續 賢治素描』(関登久也著、眞日本社)204p>
そして気付いたいことは、小作人になった甚次郎は「カーキ色の作業服」を脱ぎ捨てたが、「本統の百姓になる」と周りに言って下根子桜に移り住んだ賢治は「カーキ色の服」を着ていたということの違いがあるということに、である。
 このことに関しては、井上ひさしも『宮澤賢治に聞く』(井上は、しっかりと取材した上でこの本を著していることが、同書を読んでいるとおのずからわかってくる)の中で次の様に述べている。
 リアカーも珍しい。花巻にまだ二十台もない。賢治は服装も極めていた。カーキ色の作業服をびしっと着込んでいる。これも花巻地方の農民には珍しいこしらえである。
             〈『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、文春文庫)190p〉
 ということはおそらく、当時の賢治の出立ちは下掲のようなものであったに違いない。

             <『拡がりゆく賢治宇宙<*1>』(宮澤賢治イーハトーブ館)より>

 さてそこで、帰農した甚次郎の出立ちと「花巻地方の農民には珍しいこしらえ」の賢治を比べてみると、容易に見えてくるのは、二人がそれぞれ思い描いていたであろう「小作人」と「本統の百姓」は根本的に違っていたのであろうということだ。そしてもう一つ、
 賢治が甚次郎に「小作人たれ」と「訓へ」たそのイメージは【農装の著者】の写真のようなのものであり、決して上掲のリヤカーを引く「カーキ色の作業着」を着ていると思われるようなものではなかった。
ということである。

 一方、実はある時まで、貧しい農民にふさわしい最も安い履物が「ダルマ靴」だ私は思い込んでいた。ところが、板谷栄城氏は『素顔の宮澤賢治』において次のようなことを論じていた。
 ところで賢治の教え子照井謹二郎からいろいろ話を聞いたおり、「ダルマ靴というのはなかなか高価なもので、普通の農民には手のとどかないものでしたな」と独り言のように言うのを聞いて、頭をハンマーでたたかれたほどびっくりし、そして心の中で赤面しました。恥ずかしい話ですが、それまではダルマ靴というのは、貧乏な農民用の最も安い履き物だと思っていたのです。賢治と同じ盛岡高等農林学校に学び、大戦中に岩手の農村で農民のまねごとをしたことのある私でさえそうですから、頭の中だけで農業に憧れいわゆる進歩的思想の文学青年たちが、ダルマ靴のことを農聖の清貧の象徴と思ったのも無理ありません。
             <『素顔の宮澤賢治』(板谷栄城著、平凡社)51pより>
そこで私もこの例に漏れなかったわけだから、吃驚したものだった。
 そこで私は、甚次郎が「藁靴をはいて活動を始めた時の嬉しさ」と書いていたことにもハッとしたのだ。賢治は「ダルマ靴」、甚次郎は「藁靴」だったのである。この履物を比べてみただけでもまた、賢治と甚次郎の違いが露わになってきた。小作人には高価な「ダルマ靴」など履けるわけもなく、履けるのは自分たちが育てた稲の、その稲藁で作った「藁靴」だったのだ。

 要するに、『土に叫ぶ』によれば、賢治は甚次郎に対して、
と「懇々と説諭」し、その必要条件の一つとして「小作人たれ」と強く「訓へ」たということになっているわけだが、そう教えた賢治本人はそのような小作人になるということは、もともと考えていなかったと残念ながら判断せざるを得なさそうだ。そしてそれは、「農村劇をやれ」という事に関して考察することによってより明らかになってゆきそうだ。

<*1:註> ただし注意してほしいのは、『拡がりゆく賢治宇宙』には、 
    賢治の写真かとも考えられたこともあるが、はっきりしない。
と註釈があることにである。この件に関しては以前〝番外 賢治詩碑への道・リアカーを牽く賢治?〟で論じたように、この写真は賢治没後の写真でしかあり得ない。おそらくこの写真中の人物は、
    賢治を真似た服装をして賢治が使った(ような?)リヤカーを牽いている。
のであろう。もしかするとその牽き方さえも真似て。
 というのは、実証的賢治研究家菊池忠二氏はある地元の人から聞いたこととして、
 賢治はリヤカーを牽くとき普通の人のような牽き方はしなかった。普通はハンドルのフレームの中に入って押すのだが、賢治の場合はフレームの中には入らずに外からハンドルを後ろ手で引っぱって牽いていた。
という証言を得ているということをある時私に教えてくれたからである。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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