みちのくの山野草

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3648 4月1日付『岩手日報』報道の疑問

2013-11-23 09:00:00 | 涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
大正15年4月1日付『岩手日報』記事再び
 さて、関連する書簡や証言等については一通り目を通したので、再び件の大正15年4月1日付『岩手日報』の例の記事に戻ってみよう。
 それは以下のような内容であった。
   新しい農村の建設に努力する
         花巻農學校を辞した宮澤先生
 花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつたきのふ宮澤氏を訪ねると
現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
と語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である
              <『岩手日報』(大正15年4月1日付)の三面より>
そこから生ずる新たな疑問
 さて、こうして読み直していると、かつてはそんなことはつゆ思わなかったのだが、まずもって不思議に思うことが次の
 賢治が花巻農学校を辞すという私的な行為が、なぜ『岩手日報』という公器に載ったのだろうか。
という疑問である。
 今までの検証に基づけば、賢治が唐突に花巻農学校を辞めると言い出したのは、菊池信一の証言などからして早くとも国民高等学校の終了式の日大正15年3月27日。一方、この新聞報道は大正15年4月1日だから、少なくとも賢治が取材を受けたのは遅くともその前日の3月31日。とすれば、その間は
  3月28日
  3月29日
  3月30日
の3日間しかないこととなる。
 となれば、この短期間の間に当時のマスコミが単なる個人的な退職の報道に関心を持つわけはなく、賢治が積極的にマスコミすなわち『岩手日報』に取材を依頼したという可能性が極めて高い、と考えることはそれほど飛躍があることでもなかろう。
 まして、先にも触れた小田島留吉の証言『その年の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」と廊下と講堂の入口に、賢治自筆の紙が貼ってあった』ということを考え合わせると、その衝動的な退職には私達が知らない何らかの理由がそこにはあり、それに「当て付ける」ためのマスコミへの取材依頼であり、貼り紙であったと考えられないこともない。つまり、この貼り紙と新聞報道はかなり通底していたのではなかろうか。
 そう感ずるのは、周到なる準備の下に賢治が花巻農学校を辞めたわけでないことはもとよりだが、この取材内容・報道内容がそれまでの賢治の営為や、その後のそれとあまり整合性がないような気が私にはするからでもある。
 
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『賢治が一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』   


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