みちのくの山野草

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その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた

2015-05-18 09:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
紫波地方一帯は凶歉
 では、話を元に戻して続けよう。 
 昭和2年1月19日付付『岩手日報』によれば、古館村の旱害被害も甚大だったという次のような記事もあった。
【Fig.1 昭和2年1月19日付『岩手日報』】

 得能知事が旱害地視察 寒さと飢えになく村民 正視するに忍びない 彼等のドン底生活
紫波郡地方のかん害惨状は日一日と深刻の度を増し行きやがて來たるべき越年の喜びも今はどこへやら同地方では舊年末をひかへて益々惨苦は激甚を極め村民は只飢えとさむさにふるえてゐる得能知事は殊にもこの惨状に深く同情し救濟方法として常に製筵事業を奨励する一方再三同地を訪ねては善後策につき絶えずアタマを悩まして居るが十八日更に猪股?業課長、藤原技師、佐藤?の関係職員を随へて最もひどく被害影響を被つて居る古館、志和、赤石日詰の一町三ヶ村を巡視し困窮のドン底に喘ぐ村民たちの實生活を詳細に視察したが各村ともドコの幹をのぞいても正視するに忍びない悲惨な生活状態であった
 赤石村にも劣らぬ古館村の惨状 舊年末を控えて益々窮乏を告ぐ
古館は赤石におとらぬ惨状を呈し舊年末をひかへて益々窮乏を継げてゐる仝村役場の調査に依れば耕地反別二百町歩のうち収穫皆無は八十町歩の大きさに達し減収反別を加へれば百二十町歩の多さに達し昨年の五千三百石収穫高に比し約三千石減収二千石の収穫であるが之とても品質は非常にわるく、一石につき六圓の格差を示し市場等には販売出來ぬ有り樣であると、右について高橋古館村長は語る
 本年のかん害は自作人も小作人と同様明日の食料にも窮する有り樣で之が救濟策としては、縣の奨励方法に基き十三日から二十台の製筵機をかり受けて製筵事業を始めましたが何しろ未だ日も浅い事とて只今の処講習を行って居ます
 ということは、古館村に関して言えば、
   大正15年の収穫高は2,000石
であり、前年のそれ5,300石と比べれば
   2,000/5,300=37.7%
だから、6割強の減収だったことになる。収穫高は前年の4割にも満たなかったのである。しかもそれとて、米の品質は極めて悪かったのだ。
 また、同紙面には
【Fig.2 昭和2年1月19日付『岩手日報』】

この冬をどうして暮らす 
 赤石と本村は同樣
  菅原不動村長語る

辨當持たぬ小學生のいぢらしい姿
 校長は每日泣かされて居る
  とても正視はできない
という見出しの記事も載っている。
 したがって、紫波郡内の
   赤石村、不動村、志和村、古館村
の何れもが旱害被害が甚大だったのだから、
   大正15年の紫波地方一帯はまさしく凶歉だった。
といっても過言ではなかろう。

その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた
 一方、その頃賢治や羅須地人協会員はこの「凶歉」に対してどのように認識し、どのような対応をしていたのだろうか。
 先に私は、“この頃賢治の心は古里になく”において、賢治は前年の大正15年12月は実質丸々一ヶ月間滞京していたから、古里のとりわけ隣の郡内の赤石村等の凄まじい大干魃による苦悶を賢治は知らなかった可能性があるから、古里の農民達の苦悶などは微塵も彼の心にも頭の中にもなかったし、一人暢気に「高等遊民」らしさを発揮していたのかもしれないなどを良心的に解釈してみようとも思ってみたのだが、明けて昭和2年の1月であれば帰花していたわけだから、これらの新聞報道を賢治が知らぬわけはない。当然、
 紫波郡内の赤石村や不動村、古館村そして志和村等の農家は大旱害によって惨状の極み、疲弊困難のどん底に落とされていた。
ことは知っていただろうし、そのあげく「米價の大崩落」によって「農村經濟は全く破滅の苦境」に陥っていたことも十分にわかっていたであろう。また、この惨状を憂えて全国から沢山の救援の手が差し伸べられていたであろうということももちろんである。
 ところが私は、当時の協会員たちの証言を知ると不安に襲われる。たとえば、伊藤克己が「先生と私達―羅須地人協会時代―」の中で述べている次のような証言をである。
 その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。近村の篤農家や農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。大ぶいろいろの先生が書いた植物や土壌の圖解、あるひは茶色の原稿用紙にく謄寫した肥料の化學方程式を皆に渡して教材とし、先生は板の前に立つて解り易く説明をしながら、皆の質問に答へたり、先生は自分で知らないその地方の古くからの農業の習慣等を聞いて居られた。…(略)…私達は湯を沸かしたり、大豆を煎つたりした。先生は皆に食べさしたいと云つて林檎とするめを振舞つたり、そしてオルガンを彈いたりしたのである。ある日午後から藝術講座(そう名稱づけた譯ではない)を開いた事がある。トルストイやゲーテの藝術定義から始まつて農民藝術や農民詩について語られた。從つて私達はその當時のノートへ羅須地人協會と書かず、農民藝術學校と書いて自稱してゐたものである。また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。…(略)…
 私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まないと云う事だつた。
 セロは一時花陽館と云ふ映畫館に身賣りした。私達は無料券を貰つて映畫を觀に行つたものである。今にして思えばほんたうにすまない譯である。
               <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p~より>
 この伊藤の語るところの「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」の「その頃の冬」とは何年の何月頃のことだろうか。まずは、伊藤が語っているこのような「樂しい集まり」が行われたのは少なくとも昭和2年の4月頃以降ではなかろう。その頃以降の賢治は、農民等に対しては肥料設計などの稲作指導しかほぼ行っていなかったはずだからである。とすれば、それ以前の冬にこのような事柄が行われたであろうし、『新校本年譜』等によれば、大正15年12月頃~昭和2年1月頃の間の賢治の動向は
◇大正15年
11月29日 羅須地人協会としての最初の集会
12月 1日 羅須地人協会定期集会。持ち寄り競売を行う。
12月 2日 上京
12月 3日 着京、神田錦町上州屋に下宿
      エスペラント、タイプライター、オルガン習得
      図書館通い、築地小劇場や歌舞技座の観劇
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席
12月15日 政次郎に200円の送金を依頼
12月29日 帰花
◇昭和2年
1月 5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪
1月 7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
1月10日 羅須地人協会講義 農業ニ必須ナル化学ノ基礎
1月20日    〃     土壌学要綱
1月30日    〃     植物生理学要綱
2月1日 『岩手日報』の報道を境にして活動から手を引いていった。
というこだから、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」というところの〝冬〟とは大正15年12月頃~昭和2年2月頃の間となろう。
 しかもこの場合、それはもっと限定され、
 伊藤が、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」という期間は昭和2年の1月のほぼ1ヶ月間のことである。
となってしまうであろう。なぜならば、その冬の大正15年12月中の賢治はほぼ滞京していたし、明けて昭和2年の2月1日は〝悲しい日がきてゐた〟<*1>ということでもはや2月1日以降は、楽しい集まりになり得なかったと判断できるからである。
 したがって逆に言えば、隣の郡内の紫波一帯は「凶歉」であることが知れ渡っていった昭和2年1月頃に賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集まりの日」を持ってはいたが、彼等がこの「凶歉」の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの義捐活動を行っていたりした昭和2年1月であったとはどうも言い難いようだ。少なくとも伊藤克己はそのようなことに関しては一言も触れていないからである。また、管見故かもしれないが、伊藤のみならず伊藤以外の者の、1月の賢治がこの「凶歉」に対してそのような救援活動をしたというような証言も私は全く知らない。羅須地人協会に「社会性」というものは乏しかったのだろうか…。

<*1:註> 伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協會時代―」において、
 私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まないと云う事だつた。
 セロは一時花陽館と云ふ映畫館に身賣りした。私達は無料券を貰つて映畫を觀に行つたものである。今にして思えばほんたうにすまない譯である。
              <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p~より>
と述べている。

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