みちのくの山野草

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実家の小作人になった総領息子

2020-12-20 20:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』(安藤玉治著、農文協)〉

 ではここからは、『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』によって、松田甚次郎のことを学んでゆきたい。

 まずは、「実家の小作人になった総領息子」という項からである。そこには甚次郞に関してこんなことが述べられていた。
 生家松田家は、新庄鳥越一二〇戸の集落で一番という大地主である。…投稿者略…
 この旧家の総領息子として生まれた甚次郞の幼い頃は、二四、五人の血縁家族と、七、八人の常雇人とを合わせて三〇数名の大世帯であった。
 父甚五郎は鳥越信用組合を興し、村議、山林組合長、耕地整理組合長などの諸役をつとめる村きっての顔役であり……
            〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』(安藤玉治著、農文協)46p〉
 というわけで、実は賢治と甚次郞は結構似たところがある。それは、二人とも生家は大地主の旧家・名家<*1>の総領であるからである。
 そして安藤玉治は、
 田舎の農家としては最高の学校までふましてやったのに、何も好き好んで小作人になりたいとは。松田家の体面にかかわる。それこそ村中の笑い者になるだけだと激しい反対を受けたのも当然であった。
 しかし厳父甚五郎は、熟慮の末、息子の願いを聞き入れた。
               〈同47p〉
とも述べている。このことについては、甚次郞自身も、
 父から、六反歩に旱魃田の小作を許された時の喜びは何と言つて言ひ現してよいかわからぬ。
             〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)10p〉
と述べているから、そのとおり「六反歩に旱魃田の小作」人になったのであろう。そしてもちろん、何故甚次郞が小作人になったのかというと、それはご承知のように次のような「先生の訓へ」を受けたからだ。
 お別れの夕食に握り飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和かな気分になつた時、先生は厳かに教訓して下さつた。この訓えこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。
             〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p~〉
 つまり、初めて二人が会った昭和2年3月8日その一日で、甚次郞は賢治からこう強く「訓へ」られただけで、その後そのとおりに実践し、小作人となり、農村劇を上演し続け(やがて賢治よりも若い35歳で斃れ)た<*2>のだから、甚次郞の素直さと純真さそしてひたむきさに私は頭が下がる。
 それから、安藤はこんなことも述べていた。
 松田甚次郎は早速、自宅から数百メートルはなれた場所に、三坪の小さな小屋を建て、羊を飼う生活から小作人生活に入った。
 労働用の股引と半纏を着、前掛けに頰かむりをして、町へも役場へも、山へも、どこへでもそのままのいでたちで立ち歩く。
 家の者が〝そんな物好きな事は止してくれ、家の体面をけがすから〟と泣かんばかりにして頼んでも、平然としていっこうに聞こうともしなかった
             〈48p~〉
 そこで、「三坪の小さな小屋」と知って、まるで賢治のあの「小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」を彷彿とさせられる。羅須地人協会の建物はそんな、「小さな小屋」でないからなおさらにである。そしてそれは、ここまで『追悼 義農松田甚次郎先生』等を読んでみてなおさらにそう思うし、「労働用の股引と半纏を着、前掛けに頰かむりをして、町へも役場へも、山へも、どこへでもそのままのいでたちで立ち歩く」については、さもありなんと思える。一方で、賢治のイメージは作られたものが多そうで、私もかつてはそのイメーが事実だあったと勝手に思い込んでいた。ところが、検証してみるととりわけ「雨ニモマケズ」に書かれている事柄はほとんどそうではなかったことばかりであった。

<*1:投稿者註> 当時賢治の生家では10町歩ほどの小作地があったという。それは大正4年の「岩手紳士録」に、
   宮沢政次郎 田五町七反、畑四町四反、山林原野十町
            〈『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)272p〉
とあるからである。
<*2:投稿者註> となれば、賢治も甚次郞とほぼ同じ立場・境遇にあったのだから、賢治がこう甚次郞に強く「訓へ」たのであれば、当然賢治も小作人となり、農村劇もやったであろう、と普通は思う。しかし実際には、ご承知のように、下根子桜に住んでいた頃の賢治は小作人にもならなかったし、農村劇も上演していない。そこで言えることは、賢治の次の二つの凄さである。
 その一つは、
 甚次郞は賢治からこう強く「訓へ」られただけで、甚次郞はその後そのとおりに実践し(やがて賢治よりも若い35歳で斃れ)たのだから、甚次郞は素直で真面目な人物であったせいもあったのであろうが、初めて二人が会った昭和2年3月8日その一日で、そうなさしめた賢治のカリスマ性はずば抜けていたのであろう。
という凄さだ。そして二つ目は、
 同じような立場にありながら、賢治は他人には強く「訓へ」ながらも、自分はそのどちらもなさなかったし、そのことに拘りや負い目を持っていたとは言えないようだ。
という凄さ(賢治は私のような凡人の倫理観では測れない人物であったということ)だ。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通りです。

 そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。



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