みちのくの山野草

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2027 S2/3/8の賢治宅訪問

2011-03-05 08:00:00 | 賢治関連
         《↑3月の下根子桜》(平成23年3月4日撮影)

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 松田甚次郎の赤石村慰問は一般に3月8日の午前と思われているようだが慰問したのは大正15年12月25日であるし、この12月25日に甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねてはいない。
と結論していいのではなかろうかと主張した。
 すなわち、私家版『宮澤賢治―素顔の我が友―』(佐藤隆房著)
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。

と甚次郎が賢治を訪ねに行く様がまるで見ているかの如くに語られているが、甚次郎がこの日に下根子桜を訪れていたということは佐藤隆房氏の何かの思い違いであろうと思われる。

 一方、これに関連して松田甚次郎自身は自著『土に叫ぶ』の出だしで次のように語っている。 
    一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。

   <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>

 ところが、松田甚次郎のこの日(昭和2年3月8日)の日記を見てみると次のようにしたためられている。
 忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ
 reading
 9.for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
 1.戯、其他農村芸術ニツキ、
 2.生活 其他 処世上
  unpple
 2.30.for morioka 運送店
 stobu 定盛先生行
 nignt 斎藤君

 今日の喜ビヲ吾の幸福トスル 宮沢君の
 誠心ヲ吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ.
 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ
 吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以ツテ盡力スル
 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリ
 おヽお郷里の方々!地学会、農藝会
 此の中心ニ吾々のなすヲ見よ.
 現代の農村生活ヲ活カスノダ

 晴 関西大地震 花巻行


 したがって、松田甚次郎が『土に叫ぶ』で語っていることとこの日記の中味との間には矛盾がある。
 一般に記憶は薄れてゆくものだから、昭和13年に書れた『土に叫ぶ』の中味とそれより10年余も前の昭和2年の日記に書かれている中味とを比べた場合、その信憑性は日記の方がはるかに高いであろう。
 とすれば『土に叫ぶ』の中で甚次郎が語っている次の2点についてはそれぞれ次のように訂正されると思う。 

(1) 昭和二年三月の或る日南部せんべいを一杯買ひ込んで、赤石村を見舞つた。
 →大正15年12月25日に南部せんべいを一杯買ひ込んで、赤石村を見舞つた
(2) 同日の午後、宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
 →昭和2年3月8日に宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
 
 さて、では何故違いが起こったのであろうか。
 それは単純に考えれば10年以上も前のことだから松田甚次郎が記憶違いをしていたのかも知れない。
 あるいは、大正天皇が亡くなった当日に赤石村に慰問に行ったことを明らかにすることが甚次郎には憚られたからなのかも知れない。
 このいずれかであると考えれば甚次郎が『土に叫ぶ』を前掲のように書いていることにそれほど違和感はない、と私は得心した。

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