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『追悼 義農松田甚次郎先生』から言えること

2020-12-20 14:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 さて、今迄三回に分けて、『追悼 義農松田甚次郎先生』に関する投稿の中身をざっと振り返ってみた<*1>。そしてその結果言えることは、
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 ベストセラー『土に叫ぶ』は当時農業恐慌等で苦しんでいた農民たちに救いの手を差し伸べ、彼等の未来に光明を灯した。というのは、同書を通じてとりわけ多くの農村青年たちに甚次郎の実践が知られ、それらの実践は農村青年たちに指針を与え、支えになったからだ。おのずから、甚次郞は彼らから敬慕、感謝された。しかも、それは山形県内にとどまらず、外地までも含めてであり、また農民からのみならずである。さらには、甚次郎の精神を引き継いで奮闘しようという人物が少なからずいたから、それは、甚次郎の当時の評価がかなり高かったという証左ともなろう。なお、当時岩手では、賢治よりも甚次郎の方が世間に知られていたようだ。

 甚次郞は戦意昂揚に与したとも言われている(ただし、それは甚次郞独りだけではなく当時は多くの人がそうだった)が、実際そのように甚次郞のことを見ていた人もいたことを私は知ったし、甚次郞が「滿鮮の曠野に耕作出來る拓殖訓練も授け」ようとした次三男の靑年の何人かが、実際に当地へ行ったということも否定できない。
 
 甚次郞は、「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」と誰かが誹っているが、そもそも時流に乗る前に、既に甚次郞の高名は早い時点から知られていたから、この論理は当て嵌められない。また、甚次郞に「農本主義」というレッテルが貼られ、そのことが彼の評価を妨げているようだが、もし甚次郎が農本主義者であったとしても、甚次郞の実践は加藤完治や橘孝三郎のそれと較べれば、それほど「農本主義」の色濃いものではなく、もっと普遍性のあるものであった。

 甚次郞は、「自宅附近に農園や塾を開いて遠近より松田君の徳を慕ふて集り来る青年のために実践的指導をなし、其の上に各地方からの依頼に應じて講演にも出かけた」と言える。それは、甚次郎は塾生たちと一緒に、先頭に立って泥まみれ汗まみれになりながら黙々と農産物の増産のために「必死」になって取り組んだからである。一方で、甚次郎自身は、「私は何も望んでるんぢやないです。只、お互いの住む村を農村を明るくそして和やかにして暮らして行きたい許りにかうして叫ぶのです」と言ったということからも、このことは頷ける。あるいは、甚次郞は研修生に対して、
一、眞の農民錬成道場は泥田にあり米作りせよ。
一、人の嫌ひな仕事をやれ
一、云ふもよい。しかし実行が先だ
一、つらき事、苦しき事を好んでやれ
一、人を使ふには充分注意せよ(人には陰日向あり)
と訓示していたということからも、またである。
 おのずから、甚次郎が「師父」と称えられるのは至極当然であろう。

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というあたりではなかろうか。

<*1:投稿者註>
**********************************************************【前篇】**********************************************************
 松田甚次郎は多くの農民(青年)たちの支えになっていて、敬慕、感謝されていた。
 それは、著書『土に叫ぶ』が大ベストセラーとなり、とりわけ農村青年に読まれたからでもある。
 甚次郞は塾生から絶大な支持を得、崇敬されていたし、甚次郞は塾生たちを信じていた。
 甚次郞は山形県内にとどまらず、外地も含めて広く知られ、高く評価されていた。
 甚次郞は戦意昂揚に与したと言われているが、それは甚次郞独りだけではなく当時は多くの人がそうだった。
 甚次郞は極めてストイックであった。
 賢治が「聖農」と呼ばれるようになったのは甚次郞がそう言ったからだといわれているようだが、「科学的聖農」と言っていたということは確認できた。
 「現在貧しき乍らも国策に協力し食糧増産に全力を盡くし皇国農民の強い誇りと責任を感じて暮らす事の出来るのも先生の御教訓によるのであると思ひます」、というように認識していた人物がいた。
**********************************************************【中篇】**********************************************************
 松田甚次郎の精神を引き継いで奮闘しようという人物が少なからずいた。
 やはり、甚次郎の当時の評価はかなり高かった。
 「最上共働村塾」の「開塾趣意」の中に、
 更に次三男の靑年を滿鮮の曠野に耕作出來る拓殖訓練も授け、強烈なる皇國精神の發動を以つて、農村のどん底の立場や、不景氣、失業苦のない明るい規範の社會を招来するまで務めねばなりません。各々の立場を意識的に分擔し、お互に信じ、共働し、隣保し、以つて日本農村をして、全人類に先驅する正しい皇道日本たらしめねばなりません。
と謳われていた。
 甚次郞が「滿鮮の曠野に耕作出來る拓殖訓練も授け」ようとした次三男の靑年の何人かが、実際に当地へ行ったということは否定できない
 満蒙においても甚次郞を崇敬していた人物がいたが、それは賢治の場合にも同様であった。
 「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」と誰かが誹っているが、そもそも時流に乗る前に、既に甚次郞の高名は早い時点から知られていたから、この論理は当て嵌められない。
 当時岩手では、賢治よりも松田甚次郎の方が世間に知られていた。
 甚次郞については、まさに「自宅附近に農園や塾を開いて遠近より松田君の徳を慕ふて集り来る青年のために実践的指導をなし、其の上に各地方からの依頼に應じて講演にも出かけた」と小野が言うとおりだったであろう。
 甚次郞は、「「土に叫ぶ」勤王村の確立に献身して」とか「農村と都会との交流を常に理想とし日本の青年が堅き結束を図つて八紘一宇の理念たる大東亜共栄圏の建設に邁進し寄與せんとしつゝあつた」、と見ていた塾生があった。
**********************************************************【後篇】********************************************************
 松田甚次郎の『土に叫ぶ』等は、当時農業恐慌等でとりわけ苦しんでいた農民たちに救いの手を差し伸べ、彼等の未来に光明を灯してくれた。
 甚次郎は塾生たちと一緒に、先頭に立って泥まみれ汗まみれになりながら黙々と農産物の増産のために「必死」になって取り組んだ。
 甚次郎は、「私は何も望んでるんぢやないです。只、お互いの住む村を農村を明るくそして和やかにして暮らして行きたい許りにかうして叫ぶのです」と言ったという。
 甚次郎は多くの農村青年らから敬慕されていたことがなおさら浮き彫りになった。
 甚次郎が「師父」と称えられるのは至極当然であろう。
 甚次郎の実践は「農本主義」の色濃いものではなく、もっと普遍性のあるものであった。
 甚次郞は研修生に対して、
一、眞の農民錬成道場は泥田にあり米作りせよ。
一、人の嫌ひな仕事をやれ
一、云ふもよい。しかし実行が先だ
一、つらき事、苦しき事を好んでやれ
一、人を使ふには充分注意せよ(人には陰日向あり)
と訓示していた。
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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通りです。

 そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。



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