みちのくの山野草

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思考実験<賢治三回目の「家出」>(後編)

2019-02-07 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

吉田 うん。というのも、この頃の賢治の体温はどうだったかというと、『兄妹像手帳』に賢治自身が次表のようにとメモしている。
19〔日〕 37.2〔度〕
20〔日〕 37.3〔度〕
21〔日〕 37.9〔度〕
22〔日〕 38.6〔度〕
23〔日〕 38.2〔度〕
24〔日〕 38.2〔度〕

                       〈『校本宮澤賢治全集第十二巻 (上)』134p〉
 しかも加藤謙次郎は、9月19日に仙台の古本屋内で浮世絵の話をしていた賢治に偶々出会い、
 自宅に案内して夕食を共にし、夜遅くまで話し込んだ。…(筆者略)…化粧煉瓦を造つて売る計画を説明し、その試作品を携えて名古屋方面迄売込宣伝に行つて来ると張り切りつて居り、胸が悪い様子は全然感ぜられなかつた。
           <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)315p~より>
と証言している。
荒木 そうなんだ。その上、21日までの体温はいずれも37℃台じゃないか。賢治は「九月廿一日」付の「遺書」を書いたというのが通説のようだが、これぽっちの「高熱」がたった二、三日続いただけであのような「遺書」を書くというのが? 書く訳ねえべ。あれはもはや「遺書」などではないということだ……。
 いずれ、先程の俺の質問の残りである「何時」に対する答は、
 少なくとも9月22日以降の高熱から判断すれば22日以降に吉祥寺に行ったことはまずなかろうことと、着京が9月20日であることは間違いなさそうだから、吉祥寺行きは20日か21日であろう。
ということか。
吉田 そう、賢治の体温が高かったとはいえこの両日ならばまだ37℃台、無理すれば吉祥寺に行けないこともないから、このいずれかの日に賢治は少なくとも吉祥寺の菊池武雄の家に行き、また当時近くに住んでいたとも思われる伊藤ちゑの許へも訪ねて行った。まあ、これらはあくまでも思考実験上でのことだけど。
鈴木 あっそっか! 思い出した。
荒木 なんだよ、突然。
鈴木 実は、ちゑの直ぐ上の姉ハナが当時吉祥寺に住んでいた(平成26年11月7日、伊藤ちゑの生家当主より教わった)というんだな。だから、吉田の今の発言は現実的にもあり得た。
吉田 おっ、棚からぼた餅だな。よくよく考えてみれば、高熱にも関わらず菊池武雄へ「春本」等を届けるために賢治がわざわざ吉祥寺に行ったということは妙な話だと思っていたが、当時ちゑは吉祥寺の姉の家に住んでいたなどということもあり得るから、これでますますこの思考実験も現実味を帯びてきたぞ。
 そのついでに調子に乗って言えば、場合によっては、この東藏宛書簡〔395〕中の「廿日夜烈しく発熱致し…熱納まるを待ちてどこかのあばらやにてもはいり」は賢治の方便であった可能性もあるということも視野に入れる必要があるかもしれん。
荒木 どういうことだ?
吉田 他でもない、そうすれば少なくとも取り敢えず家に戻らなくてもよいことになるから実質的な「家出」ができるだろう。裏を返せば、この東藏宛書簡は、実質的に賢治は三回目の「家出」をする覚悟であったということの一つの傍証となりそうな気もする。
鈴木 それはちょっと論理の飛躍で、無理筋だと思うがな。う~む、段々何が何だかわからなくなってきたぞ。
荒木 え~と、昭和3年の上京は「逃避行」と言えなくもない。一方今回の昭和6年の上京は「東北砕石工場技師」になってから約7ヶ月後の仕事に行き詰まりを見せ始めた頃の上京だし、少なくとも直ぐに花巻に戻ることは考えていなかったそれだ。そういや、羅須地人協会の活動の場合も約7ヶ月で頓挫した。
吉田 しかも昭和3年の場合は田植え前後の、昭和6年の場合は稲刈り前後の共に農繁期の古里を離れての上京だ。だから、賢治の場合には、少しやってみて少し問題にぶつかったならば直ぐに放り出してそこから逃避してしまうという性向がどうやらありそうで、確かに同じ構図がこの2つにはあるな。
荒木 ところでその「家出」だが、最初のは何となくわがるが…。
吉田 もちろん最初の一回目は、
 その時頭の上の棚から御書が二冊共ばつたり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ。時計を見たら四時半です。汽車は五時十二分です。すぐに臺所へ行つて手を洗ひ御本尊を箱に納め奉り御書と一緒に包み洋傘を一本持つて急いで店から出ました。
           <『宮澤賢治素描』(関登久也著、共榮出版)47pより>
という大正10年1月の衝動的で突発的な「家出」。
 二回目が、これもまた突如花巻農学校の職を辞して下根子桜で暮らしを始めたことも、確たる見通しもないままのそれだったのだから僕に言わせれば実質的には「家出」で、これ。
 そして三回目が、この昭和6年9月の上京だ。ただしほとんどの人はそうは思わんだろうけどな。
荒木 いや、三回目も吉田に段々刷り込まれてきたせいか、それもありかなと思うようになってしまった。世の中、二度あることは三度あるとも言うしな。
吉田 あっそうそう。僕と似たことを小倉豊文がこう言っていたはずだ。
 最後の上京にしても、その前後二回の家を出ての独立的生活にしても、賢治にとって実に思い出深いものであったろう。賢治はその都度命がけの「出家」を決行したのである
             <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)47pより>
と。ただし、こちらは文字が逆で「出家」だけど。
鈴木 そうか、小倉も三回と見ていたのか。それも「命がけの」。なるほどな。いずれ、この三回の「家出」にしてもあるいは「出家」にしても、まさしく不羈奔放な賢治の面目躍如というところかな。
荒木 皮肉か?
鈴木 とんでもない、このような賢治だからこそあれだけの作品を書けたということだよ。あの『春と修羅』のような作品をスケッチできる人が今後現れることなど二度とないだろう。
荒木 確かにこうやって振り返ってみると、この時の上京は賢治<三回目の「家出」>というのは十分にあり得ることだ。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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