みちのくの山野草

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4235 伊藤ちゑの姉ハナは吉祥寺に住んでいた 

2014-11-09 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
ハナは吉祥寺に住んでいた
 森荘已池は「「三原三部」の人」の中で、
 そのころちゑさんは、あるセッツルメントに働いていました。母子ホームです。一人の女性が、母子ホームから抜け出して、近所に部屋をかり、高級な淫賣のようなことをはじめたのでくらしがよくなり、母子ホームに入る女性たちを、仲間にいれるような企てをしたときなどは、ちゑさんは、全く惡魔とたたかうように一生けんめいだつたといいます。男手のないところなので、重い物を持つて、高いところからおちて、背骨をうつて、それから脊髄カリエスになつて寝こんだということでした。
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)118p~より>
と述べているが、これに対して時得孝良は次のような聞書き
 賢治関係の本に、ちゑさんが「セツルメント活動中、母子ホームで高いところから落ち、それが原因でカリエスになったと書いてあるが、実際は、姉の家で重い荷物を持ち階段から滑り落ちたことが事実である。   (「宮沢賢治と『三原三部』私家版」)
              <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社、平成6年)324p~より>
を得ていると荻原昌好氏は述べている。
 さらにはこれらに対して、青江舜二郎は
 当然警察に目をつけられ、何度もガサ入れを食うのだが、あるときその場に居合せた彼女は、いそいで書類をもって逃げようとし、階段からすべり落ちて背骨を折ってしまう。それから入院して治療を受けたが余病を併発し、とうとう自殺してしまうのだ。
               <『宮沢賢治・修羅に生きる』(青江舜二郎著、講談社現代新書)150pより>
と述べている。
 私にはこれらのうちのどれが「高いところから落ちて怪我をしてしまった」際の真相を正しく伝えているのかしかとはわからぬが、流石に青江の「とうとう自殺してしまうのだ」は全く事実誤認だからその他の部分もその信憑性が不安になる。次に時得の聞書きだが、これは最初の森の記述内容を指しているから森のそれを否定していることになる。となれば相対的にはこの聞書きが一番信頼できそうな気はするが、さりとて確たる根拠も見出せないのでこの件は保留しておきたい。
 ここでは、この聞書きの中の「姉の家で」に関して少し述べておきたい。それは、この聞書きの文脈からすれば当時ちゑの姉が東京に住んでいたであろうことが推測されることである。そこで、先日(平成26年11月7日(金))水沢の伊藤ちゑの生家にお邪魔してそのことを訊ねてみたところ、ちゑの直ぐ上の姉ハナが確かに東京に住んでいたということを教わった。それもどこに住んでいたかというと、吉祥寺にであった。私は嬉しくなった、細い糸だが少し繋がりがあるぞと思えたからだ。

想像をたくましくすれば
 吉祥寺といえば、当時そこには深沢紅子の家もあったし、そしてその隣には菊池武雄も住んでいた<*1>。しかも、賢治は昭和6年9月20日か21日かは定かでないがこの両日のいずれかにその吉祥寺を訪ねていたはずだ。いままでは、「菊池武雄⇔画家⇔深沢紅子⇔同窓生⇔伊藤ちゑ」という繋がりがあることは知っていたが、なぜ菊池がちゑと賢治との見合いを仲立ちしたのかが今一つ不思議だった。ところがちゑの直ぐ上の姉、七雄の直ぐ下の妹であるハナが吉祥寺に住んでいたことをこの度知り、その謎がまた少し解けた気がした。それは、菊池はちゑの姉ハナとも知り合いだったのではなかろうかと直感したからだ。理由は菊池、ハナの2人は共に吉祥寺に住んでいたということもあるが、先に引用した「イーハトーヴ地理(12) 大島」における奥田の次の記述からも推測できるからである。
 妹チヱは、自ら律すること厳しく、森荘已池の『宮沢賢治と三人の女性』(昭24・1人文書房)公刊後は、人目をさけ、口を緘しているので、この書以上に、賢治との交流については知り得べくもない。しかし、賢治の友人菊池武雄の証言によると、同女は、兄嫁ナホとともに、羅須地人協会に賢治を訪問している。また、同女姪ツルの証言によると、逆に賢治の方も、何回か岩手県水沢の伊藤家を訪問している。前者に関して言えば、チヱの側には、秘められた見合いの意図があったと聞いている。
              <「イーハトーヴ地理(12) 大島」の8p>
 この記述内容に従えば、菊池は「兄嫁ナホ」や「姪ツル」<*2>、およびその証言、つまり「同女は、兄嫁ナホとともに…(略)…見合いの意図があった」を聞き知っていたことになるからである。もちろん、菊池はこれらのことを直接ちゑから聞いた可能性もあるが、奥田の「妹チヱは、自ら律すること厳しく…(略)…人目をさけ、口を緘している」というちゑの性向に鑑みれば、同じ吉祥寺に住んでいたハナから菊池はこれらのことを聞いていたということも十分に考えられるからである。
 しかも、「実際は、姉の家で重い荷物を持ち階段から滑り落ちたことが事実である」とすれば、当時ちゑは吉祥寺の姉の家にしばしば行っていた、あるいは姉ハナの家に一緒に住んでいたことも考えられる。
 そこでさらに想像をたくましくすれば、賢治が昭和6年の上京の際に吉祥寺に行った最大の目的は実はちゑに逢うためだったということも十分にあり得る。かつての思考実験<ちゑに結婚を申し込んだ賢治>が、実は単なる思考実験で終わらないかも知れない。

<*1:註> 深沢は自分の随筆集『追憶の詩人たち』所収の「一ぱいの水-賢治との出会い」の中で、
 昭和6年当時吉祥寺に住んでいた私の家に賢治がやって来て、
「宮沢ですが、お隣の菊池さんが留守ですから、これを預かってください」
と述べている。
<*2:註> ツルの母がナホで、ナホの夫が祐吾、祐吾は七雄・ちゑ兄妹の長兄である(平成26年11月7日、伊藤家の当主(ツルの子息)より)。

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