みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

伊藤ちゑ自身はどう思っていたか

2019-02-03 12:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
《『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、友藍書房)の表紙》

荒木 ところでちゑの方は一体どう思ってたんだべ。
鈴木 それは、ちゑが森に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の次のような一節からほぼ窺える。
 皆樣が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の爲に、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた樣のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆樣の陰にかくれて靜かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
             <『宮澤賢治と三人の女性』157pより>
 つまり、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないと自分自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえもしている。
吉田 さらに、ちゑと賢治を結びつけようとする原稿や記事について、
 今後一切書かぬと指切りして下さいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。…(筆者略)…
 さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。口ではやはり申し上げ切れないと思ひ、書いて参りました。どうぞ惡からずお許し下さいませ。取り急ぎかしこ。
             <『宮澤賢治と三人の女性』158pより>
とちゑは森に懇願している。余程結びつけられることが嫌だったんだろう。「六巻」ということだから、十字屋書店版『宮澤賢治全集第六巻』からは関連する原稿を抜いて欲しい、さあ一緒に取りに行きましょうとまで言ってちゑは森に迫っていたのだから。
鈴木 そうそうそうなんだよ。そして実際には、その記事は『宮澤賢治全集 別巻』の「解説」に、
   書簡の反古に就て
 …あとの方の同文らしい三通の反古は、伊豆大島に療養中の著者の友人に宛てたもので、この友人は兄妹で大島に住んでをりました。…(投稿者略)…友人の妹である女性は、著者の方から結婚してもよいと考へたこともあつた女性であります。それは遂に果たされなかつたのですが、この著者の結婚に對する考へについては、事が重大でありますし、――この短文でよく書きつくせるところではありませんから後日に讓ります。ただその一人の女性が伊豆の大島に住んでゐたことと、著者が力作「三原三部」を残し、
  ……南の海の
    南の海の
    はげしい熱氣とけむりのなかから
    ひらかぬままにさえざえ芳り
    ついにひらかず水にこぼれる
    巨きな花の蕾がある……(第二巻二五八頁)
といふ六行の斷片が、深くこれに對する答へを暗示してゐると私は見ます。
            <『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店)所収「附録」72pより>
というふうに実際には載せられてしまったと判断できる。
吉田 一方で、ちゑは森がそれを為さないであろうと見通したためだろうか、再度森に同年2月17日付の手紙を出して、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)164pより>
とさえも言っていたのにだ。
荒木 じぇじぇじぇ、そこまでちゑは言ってたのか…完全なる拒絶だな。余っ程結びつけて欲しくなかったんだべ。
吉田 そう、賢治と結びつけられることをちゑはきっぱりと拒絶していたのさ。
荒木 しかもちゑの懇願は結局無視された、というわけか。可哀想に。
吉田 そうなんだよ。
鈴木 ところで、ちゑは当時の言葉で言えば「新しい女」の一人であったとも仄聞している。そして一方の賢治は、その頃は定職も持たない当時の言葉で言えば「高等遊民」だった。しかも、ちゑは昭和16年2月17日付森宛書簡の中で、
 たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げたとは申せ、…
            <『宮澤賢治と三人の女性』162pより>
と認めていることからは、この見合いはちゑが年老いた母に義理立てしてしぶしぶ受けたそれであると言えるので、おそらく、ちゑはもともとこの見合いには乗り気でなかったのだ。
荒木 あっ、そっか。それゆえにちゑは拒絶したっていうことな。なおかつ、昭和3年6月に賢治を見送った後のちゑが、賢治に対してどう思っていたかは既に明らか。それにもかかわらず森はそれを無理矢理結びつけようとしたということか。
鈴木 それから実は、さっき引用したように、賢治と一緒になることはないと「一人ひそかにお誓い申し上げた」ということをちゑは先の書簡に書き記しているわけだが、このことをズバリ裏付ける『私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ』とちゑ自身が知り合いに対して漏らしていたということを、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念))。
 同一内容の発言を複数の人が私に教えてくれたのだから、このちゑの発言は一部の関係者の間では案外知られていることでもあろう。また、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」を裏付ける同様な証言をちゑの関係者から直接私自身も聞いている(平成25年12月11日聞き取り)。
 しかも、賢治と無理矢理結びつけることは止めて欲しいと必死になってちゑが懇願しているのはこの時の森宛書簡のみならず、先に引用した10月29日付藤原嘉藤治宛書簡でもちゑは同様なことを次のように、
 又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎり お果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
            〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)95p〉
と認めている。
吉田 ちなみに、ちゑが言うところのその「御本の後に御附けになりました年表」というものを探してみると、ほら、『宮澤賢治全集 別巻』の附録の「宮澤賢治年譜」の中に、
昭和三年 三十三歳(二五八八)
六月十三日、伊豆大島へ旅行、兄七雄氏の病を療養看護中の伊藤チヱ子氏を訪れ、見舞旁々、庭園設計を指導し、詩「三原三部」を草稿す。
            <『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和18年)附録15pより>
となっていて、ちゑの指摘したとおりの内容になっている。だから、ちゑの願いは結局聞き入れられなかったということがわかる。これはおそらく、戦中の出版だから著者はこう書きたかったということもあったのだろうけど。
鈴木 あっそうか。労農党の大物活動家である七雄の所へ、しかも岩手県下に凄まじい「アカ狩り」が行われていた頃の昭和3年6月に賢治が訪れていたということになれば、当時「戦意高揚のために利用され出していた賢治」にとって好ましいことではないと考えた人もいただろうからな。そこで、「伊豆大島行」は七雄と会うためではなくてちゑを訪れるためであったとしたかった、ということもあり得るわけか。
荒木 一方、ちゑは森に対してのみならず、嘉藤治に対しても同様のお願いをしているわけだからちゑの本心は明らか。それも、俺からみればこの十字屋版の「賢治年譜」であればさほど問題のある内容とも思えないのだが、このような内容でさえも「今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄をお訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます」と哀願しているわけだから、ちゑが賢治と結びつけられることをどれ程嫌がっていたかはこれで決まりだべ。
吉田 また、実際伊豆大島を訪ねた賢治に対しては、先に引用した昭和16年2月17日付森宛書簡に続けて、
そんな私方の意向は何一つご存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
            <『宮澤賢治と三人の女性』162pより>
とあることから言えるように、その時の賢治の素振りを見て、件の「見合い」は「ぬすみ見と同じ」行為だったということにちゑは気付き、それを恥じて賢治をまともに見ることができなかった、ということを森に素直に打ち明けていると解釈できる。
 したがって、もはや「伊豆大島行」は、少なくともちゑにとっては花巻での「見合い」をさらに進展させるためのものではなかった。それは、ちゑが森に対して、
――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
           <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)145pより>
と述懐していることからも裏付けられる。
荒木 そっか、花巻を訪ねての「見合い」がちゑにとっては「ぬすみ見」が如き行為だったことに気付いて恥じ、良心の呵責に苛まれてもはや目をふせているしかなかったということか。
鈴木 またそれは、この「伊豆大島行」に関して時得孝良氏は学生時代、ちゑを訪ねて本人からある聞き書きを得ていることからも窺える。具体的にはそのことを萩原昌好氏が『宮沢賢治「修羅」への旅』の中で、
 賢治に関する研究書や評論に、ちゑさんと賢治の関係(見合いとか結婚の対象とか)をさまざまに書いているが、昭和三年六月に大島で会った時も「おはようございます」「さようなら」と言った程度の挨拶をかわしただけで、それ以上のものではなかった。
           <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)323p~より>
と記している。このような挨拶程度の対応しかしなかったということは、ちゑはもはや賢治とは結婚しないというと決意の現れだったのだろう。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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