みちのくの山野草

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賢治はダブルスタンダード

2022-03-29 12:00:00 | 賢治渉猟
《ヤマルリトラノオ》(真昼岳、平成30年7月19日撮影)
もう止めませんか、嘘かもしれない賢治を子どもたちに教えることは。

 さて、松田甚次郞が賢治と会った昭和2年3月8日(松田甚次郞が賢治と会ったのは昭和2年3月8日と、同年8月8日の2日であり、この2日しかないことが、甚次郞の日誌(特に、大正15年昭和2年の日誌)等から導かれる)、『土に叫ぶ』の記述に従えば、賢治は初めて会ったその日に甚次郞に対し、
 ……これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ
と、力強く「訓へ」たことになる。あるいは、賢治から甚次郞は、
と言われたとなれば、赤石村などが大旱魃で苦悶していることを知って、南部せんべいを一杯買ひ込んでその村を見舞って、道々会ふ子供に与えていったというような甚次郞のことだから、心優しく純真な青年だったのであろう甚次郞がこの賢治の「訓へ」に従ったことは、びっくりしつつも納得できないこともない
 そして、この3月に盛岡高等農林学校を卒業した甚次郞は故里の新庄に戻って、父より六反歩の田地を借りて小作人となった。そして昭和2年8月8日、自作戯曲を携えて花巻へ賢治の助言を仰ぎに行った(なお、これが賢治と甚次郞が相まみえた最後となった)という。その時(昭和2年8月8日)の松田甚次郞の日記には、
  …
 農村青年ノ今後 彼モ力ナル
 ベキヲ与フレバマタ現在モ?大シ
 メルノミナレバトテカヤ
 花巻 宮沢先生行.
 AM レコード
 PM 水涸ノ組立
 4.45 花巻 for
 先生ハ快クお会シテ呉レル
 与ヘラレタ 実ニ、我師・我友人
 知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
 横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ!
 花巻宮沢先生へ  歸宅
             〈『昭和2年 松田甚次郞日誌』(新庄ふるさと歴史センター所蔵)〉
と書かれているからである。

 松田甚次郞は、初めて会った盛岡高等農林学校の先輩宮澤賢治から、「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く「訓へ」られて、そのとおり小作人になり、しかもこれまた教えどおりに農村劇に取り組んだ。そして、それ用の「自作戯曲を携え」た甚次郞は5ヶ月後にわざわざ下根子桜を再訪したことになる。そこで、最近の私は疑問を抱き始めている、その時の賢治の心中はいかばかりだったであろうか、と。それは、甚次郞も賢治も共に地主の息子(父の宮澤政次郎は当時、田五町七反、畑四町四反、山林原野十町の地主であったという)だからほぼ同じ環境にあり、賢治が後輩に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ」と言ったのであれば、賢治自身がまず「小作人」となり、「農村劇をや」らねばならなかったのではなかろうか、と。甚次郞が実際に小作人となっていたことは、再会した8月8日には少なくとも賢治には直ぐに分かったであろうし、「農村劇をやれ」についても、その戯曲を携えて指導を仰ぎに来たことから容易に察することができたはずだ。となれば、そう教えた自分は小作人にもならず、農村劇に取り組んでもいない自分を甚く恥じたのではなかろうか。穴があったら入りたいと忸怩たる想いに襲われたのではなかろうか。しかし、そのような慚愧の念を賢治がその時やその後に持ったということは言われていないから、賢治はもしかするとダブルスタンダードだったのかな、とつい思いたくもなる。
 一方、松田甚次郞はそんな思いは微塵も持たなかったであろう。それは、「松田甚次郎略年譜」を見れば自明だ。東奔西走して休まることを知らなかった甚次郞であったからだ。そして、賢治から「小作人となって粗衣粗食、過勞と更に加はる社會的經濟的壓迫を體験することが出來たら、必ず人間の眞面目が顯現される。默つて十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と言われた通りに「默つて十年間」実践し続け、その実践の報告を賢治にしようと思っても十年後には賢治は亡くなっていたからであろう、その記録を『土に叫ぶ』というタイトルの本にして出版し、その本を携えて下根子桜にやって来て、昭和13年11月13日に雨ニモマケズ詩碑に詣でて、10年間の業績報告をし、『土に叫ぶ』を賢治詩碑に捧げたという。そしてその後も、農民や農村のために全国をかけずり廻っていたのだが、昭和18年7月に雨乞いのために無理をして八森権現に登り祈願、疲労甚だしく帰宅、中耳炎再発、急性心臓内膜炎併発、新庄町楠病院入院、ついに昭和18年8月4日帰らぬ人になった。享年35歳であった。だから、まさに甚次郞は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たと言えるのではなかろうか。

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