宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

354 甚次郎の賢治宅訪問回数

2011年06月10日 | 賢治と一緒に暮らした男
                     《1↑『松田甚次郎日誌(1927年)』》

 前回、松田甚次郎が『それから度々お訪ねする機を得たのであるが』と語っているところが気になると述べたが、そのことを今回は考えてみたい。

1.甚次郎は在学中何度桜を訪ねたか
 この『それから度々お訪ねする機を得たのであるが』という表現からは、松田甚次郎は盛岡高等農林在学中に何度か下根子桜の賢治宅を訪ねていたと解釈できる。

 そこで、何回ほど賢治宅を訪れていたのかを知りたくなったので、甚次郎が高等農林在学中(大正15年4月~昭和2年3月)の『松田甚次郎日記』をしらみつぶしに調べてみた。
 ところが意外、甚次郎が下根子桜を訪れたのはただの1回(昭和2年3月8日)しかなかったのである。念のため、同日記帳の中の現金出納帳を見てみても花巻行きはその1回しかない。

 したがって、松田甚次郎が語るところの『それから度々お訪ねする機』会は少なくとも高等農林在学中にはなかったものと思われる。
 言い換えれば、甚次郎はたった一度のこの出会いで賢治から受けた”訓へ”を〝吾の幸福とし〟、いわば「賢治精神」を実践すべしと決意し、卒業後古里鳥越に戻ってその通りに実践したということになる。

2.2度目の面会
 そして、『松田甚次郎日誌(1927年)』の8月8日には次のようなことがしたためられている。
  昭和2年8月8日
  …
 花巻 宮沢先生行.
 AM レコード
 PM 水涸ノ組立
 4.45 花巻 for
 先生ハ快クお会シテ呉レル
 与ヘラレタ 実ニ、我師・我友人
 知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
 横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ

 花巻宮沢先生へ  歸宅
  
つまり、甚次郎はこの日下根子桜に賢治を訪ねている(なお、昭和2年3月8日以降この日までに花巻を訪れたとは日記には書かれていなかった)ことが判る。
 
 これに関連して松田甚次郎自身は自著『土に叫ぶ』で次のように語っている。
 水涸れ 
   …(略)…
 かうなると本当に身装も、食物も考へて居られない。温かい、柔らかい寝床さへ得られず、毎晩露おく、田圃の芝生、河原の石ころの上に、蓑を敷いて寝ることが関の山ではない。百姓は、働かねばならぬと知りつゝも、かくまで働くのかとは、小作農となつてはじめて理解出来る一大事実である。そして水掛も終わりとなり、わが田も八分作位に止まりさうになつて、村には楽しいお盆が近づいたのだ。それで或る日の倶楽部の例会で、「今年のお盆かお祭に、お互いで作つた劇でお互いでやつて見みようではないか」とすゝめたら、幸なるかな、一同快く賛成してくれた。それから一ヶ月間余暇をぬすんで、初体験の水掛と村の夜の事を脚本として書いて見た。そして倶楽部員の訂正を仰いで、ほゞ筋が出来たが、何だか脚本として物足りなくて仕様がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許に走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて下さつた。この時こそ、私と先生の最後の別離の一日であつたのだ。余りに有り難い一日であつた。やがて『水涸れ』の脚本が出来上がり、毎夜練習の日々が続いた。

     <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
 したがって、この8月8日の下根子桜訪問が甚次郎が賢治に相見えた2回目であり、なおかつ最後になってしまったということになるのであろう。

3.甚次郎の訪問と千葉恭の寄寓
 よって、甚次郎『それから度々お訪ねする機を得たのであるが』の〝度々〟とはおそらくこの2回が全てであったのではなかろうか。
 つまり、
  松田甚次郎が宮澤賢治に直接会ったのは昭和2年3月8日と同年8月8日の2回であり、2回しかない。
と言えそうである。そしてこのことから次のことがかなりの確度で言えそうである。

 いままでは千葉恭の下根子桜寄寓期間は大正15年の初夏からの約半年間と推測していたが、実は千葉恭は3月8日前後も下根子桜に寄寓していたのではなかろうか、ということである。換言すれば、寄寓期間は約半年間ではなくて、少なくとも大正15年7月~昭和2年3月の8ヶ月間以上の期間となるのではなかろうか(7月とは賢治に頼まれて千葉恭が白鳥省吾の訪問を断りに行った月)。

 なぜなら、宮澤賢治から〝松田甚次郎も大きな声でどやされた場面を千葉恭が目の当たりにしていると考えられるからであり、それはこの2回の内の前者、甚次郎が初めて下根子桜を訪れた3月8日の日のことであろうと考えられるからである。
 そしておそらくこの場面とは、甚次郎のある「応え」に対して宮澤賢治が足下に
 そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ

   <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
と、賢治から力強く言われたあの場面のことであろう。

 さらに、この日3月8日は火曜日だし、その面会時間帯は11:05~14:30と思われる。したがって、火曜日のこの時間帯に千葉恭は下根子桜の別荘に居たことになるから、この頃千葉が穀物検査所に勤めていたとは考えにくいし、水沢に戻って帰農していたとも考えにくいからである。

 つまり、
 千葉恭は3月8日前後も下根子桜に寄寓していた。
 また、千葉恭の下根子桜寄寓期間は少なくとも8ヶ月はあっった。

とは言えないだろうか。

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