みちのくの山野草

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賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガ」したか

2022-03-30 12:00:00 | 賢治渉猟
《ヤマルリトラノオ》(真昼岳、平成30年7月19日撮影)
もう止めませんか、嘘かもしれない賢治を子どもたちに教えることは。

 前回私は
   まさに甚次郞こそ、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たと言えるのではなかろうか。
と述べたが、ならば
   賢治も当然、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たはずだ。

 まずは思い出していただきたい。松田甚次郞は、
ということを。
 実は、大正15年は梅雨時にあまり雨が降らず、水不足であった。そこで農業用水を確保しようとあちこちで「水喧嘩」が頻発していたことが、下掲の『岩手日報』から読み取れる。特に、稗貫郡の隣の紫波郡では水不足が顕著で植え付けた苗は枯れ、そもそも植え付け不能地も沢山生じ、その結果大干魃となり飢饉一歩手前だった。そこで、あちこちから義捐や救援の手が差し伸べられていることが連日のように新聞報道がされていた。
【Fig.01 大正15年6月8日付岩手日報】

【Fig.02 大正15年6月9日付岩手日報】

【Fig.03 大正15年6月10日付岩手日報】

【Fig.04 大正15年6月13日付岩手日報】

【Fig.06 大正15年6月19日付 岩手日報】

【Fig.07 大正15年6月23日付 岩手日報】

【Fig.08 大正15年7月13日付 岩手日報】

【Fig.09 大正15年7月15日付 岩手日報】

【Fig.10 大正15年7月15日付 岩手日報】

 毎日酒や弁当を持ちて水を揚げてゐる 村人は灼熱地獄の中で苦闘 紫波郡の植付不能地を視察して 知事一行帰る
得能知事は猪股勧業課長、三浦技手と共に十三日自動車を駆つて紫波郡内のかん害状況を視察して帰庁したが一行の視察したのは煙山、志和、赤石、日詰、古館の六ヶ村目下植つけ不能
 面積 は七百四十町歩にたつしてゐる、此の地方は天然水の流水は殆どなく河のそこは白くかわきあがつて居るので電力利用よう水機又は石波発動機で揚水しつゝあり古館二、不動五、志和二五、赤石二三の動力利用よう水機が設置されて居り最も大きいのは赤石村で十日から七十馬力のよう水機工事が竣成したので揚水しその後植つけた面積も可なりあるが降雨がしばらくなかつたので割合に水量を要するとの事である、代用作に不動村で青苅大豆、大豆をまいたほかは土用までにできるだけ揚水して植つけんと努力し掘井戸は無数もうけられツルベで
 汲み上げ たりポンプであげたり懸命の努力を続けてをり此間酒や弁当をさげて歩く人の姿……涙ぐましい光景が呈されてをり然も太陽は日ごとに熱の強さを増して行くかの如き苦闘に依つて植つけた田も七八日頃うゑたものはほとんど枯れて其の努力もむなしくしたが水田に亀裂を生じ今後四五日降雨がなければ植つけ不能になり損害より以上の減少を来すのおそれがある、志和村では十三日公会堂に村民大会を開き八百名ほど出席し前(?)後策の協議をかさねたが知事も立ち寄つて一場の挨拶をなした、此の地方に十三日盛岡地方にふつた雨も一てきもふらず播種期以来雨らしい雨がないので大地はかわき切りコンクリートかれん瓦の様にかたまつてゐる
 つまり、
  ・植え付け不能面積は紫波郡内で740町歩
  ・7月10日より赤石村は70馬力で揚水
  ・代用作青苅大豆や大豆播種
  ・無数の掘り井戸からツルベやポンプで水汲み
ということであるが、種籾播種以来殆ど降っていない雨、この頃の強くなった日射しなどにより
  ・7月7~8日植え付けた苗は枯死
  ・今後4~5日降雨がなければ植え付け不能 
だと報道していた。
【Fig.11 大正15年7月16日付 岩手日報】

【Fig.12 大正15年7月17日付 岩手日報】

【Fig.13 大正15年7月20日付 岩手日報】

【Fig.14 大正15年8月22日付 岩手日報】

【Fig.15 大正15年9月26日付 岩手日報】

【Fig.16 大正15年10月27日付 岩手日報】

【Fig.17 大正15年11月9日付 岩手日報】

  縣米作第二回 収穫豫予想高 昨年より大減収
本縣米作第二回収穫豫想高に就いては十月末日現在にて各町村より報告を取纏めつつあるが右報告に依れば大体昨年の百十四万石に比し二割二分二十五万石の著しい減少となり実収高九十万石と見られている之は第一回予想通り本年は旱害ため出穂が遅れたに加えて強霜が例年より早く降り第一回予想九十六万石に比し更に約七分の減少を見たは稲熱病が予想外の蔓延を来たした為である殊に本年は最も大切な収穫期に於て雨量が多く未熟米も相当の数にのぼる見込みで、量の減少に加へて質に於ても夥しい影響を来し三四等米のみの生産で八九割を占めるものと見られてゐる…
【Fig.18 大正15年11月14日付 岩手日報】

【Fig.19 大正15年11月21日付 岩手日報】

  移出米検査に 半分は不合格 品質がごく悪い 花巻支所の成績
(花巻)今年は出穂時に雨量が多かつたので花巻付近から産出する俵米の如きは移出検査で三等米に合格する俵米は百俵中五割位で、他は四等米に下落するといふ有様だ…
というようなわけで、この年は夏までは日照りが続いていたのだが、稗貫では逆に刈り入れ時には雨が多かったので、米の収穫高が激減するということだけではなく、その品質もかなり悪いものとのなるであろうことがことがほぼたしかだったようだ。泣きっ面に蜂の状態であったであろう。

 そして大正15年は12月頃になると『岩手日報』の紙面は連日のように大干魃への義捐に関する報道が賑わうようになる。
【Fig.19 大正15年12月7日付 岩手日報】

  村の子供達に やつて下さい 紫波の旱害罹災地へ 人情味豊かな贈物
(花巻)5日仙台市東三番丁中村産婆学校生徒佐久間ハツ(十九)さんから紫波郡赤石村長下河原菊治氏宛一封の手紙に添へて小包郵便が届いた文面によると
 日照りのため村の子どもさんたちが大へんおこまりなさうですがこれは私が苦学してゐる内僅かの金で買つたものですどうぞ可愛想なお子さんたちにわけてやつて下さい
と細々と認めてあつた下河原氏は早速小包を開くと一貫五百目もある新しい食ぱんだつたので昼食持たぬ子供等に分配してやつた
尚栃木県から熱誠をこめた手紙をおくつて
 かん害罹災者の子弟中十四五歳の男子があつたら及ばずながら世話して上げます
と書きおくつた人もあつたいづれも人情味豊かな物語りで下河原さんは只世間の同情に対し感謝してゐた。
この記事から推測されることは、赤石村を含む紫波地方の旱魃の惨状は岩手内だけでなく、次第に広く知れていったであろうことである。
【Fig.20 大正15年12月15日付 岩手日報】

  赤石村民に同情集まる 東京の小学生からやさしい寄附
(日詰)本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる数日前東京浅草区森下町済美小学校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小学校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の学校で今度修学旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも為になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど真心をこめた手紙だった。十二日黒沢尻中学校職員一同から十四円の寄?贈あつたし同校教諭富沢義?氏から手工を指導し、製品の販路はこちらで斡旋するから指導に行つてもよい日時を教えてくれいとこれ又書簡で問ひ合せて来た。
という報道からは、この年の岩手の、とりわけ明石村等の大干魃による農民の窮状は東京方面でも知られることとなり、その惨状を知って小学生でさえも救援の手をさしのべてきたと言えそうだ。
【Fig.21 大正15年12月16日付 岩手日報】

  赤石村に同情
かねて労農党盛岡支部その他県下無産者団体が主催となつて紫波郡赤石村の惨状義えん金を街頭に立ちひろく同情を募つてゐたが第一回の締めきり日たる十五日には十二円八十銭に達したが都合に依つて二十二日まで延期し纏めた上二十五日慰問のため出発し悲惨な村民を慰めることなつた。
       ×
紫波郡ひこ部村第二消防組ではりん村赤石村のかん害惨状に深く同情した結果上等の藁三千束を赤石村共同製作所に販売しそのあががり高を全部、赤石小学校児童に寄附することとなつて十五日午前九時馬車にて藁運搬をなすところがあつた。
という報道もあった。
【Fig.4 大正15年12月20日付 岩手日報】

  在京岩手学生会 旱害罹災者を慰問 学生先輩有志より拠金をして寄附
東京岩手学生会は紫波地方かん害罹災者慰問の計画を建てその第一案として学生より拠金をする事第二案としては先輩有志より拠金する事になり今回状況調査のため明治大学生佐々木猛夫君来県したなほ第三案として学生が県の木炭を販売してその純益金を救済に向くべく決定し同上佐々木君は本県の木炭業者に交渉する使命をもつて来たのであると佐々木君は語る
 かん害救済のことについては此のあひだ東京広瀬、田子、柏田の各先輩及び学生があつまつて相談をしましたが何れ実地調査してから積極的方法をとらふといふ事にきめました。学生の木炭販売は既に秋田学生会でも実行し成せきをあげたのですから是ヒやりたいと思ひます。同志の学生三十名あります。此場合特志の木炭業者にお願して目的の遂行をはかりたいと思ひます。
というように、在京学生も動き出し始めていた。そして、地元の青年たちも、
   紫波旱害に同情 一関青年有志が
紫波郡赤石村はかん害のため村民一同悲惨なる状態に同情して一の関青年有志は本月十八日午後五時関?座に於て活動写真界を開催し純益金を赤石村村民救済資金として贈ることにした
という報道もあった。
 もちろん、県としてもその善後策を検討しているということで、
【Fig.22 大正15年12月21日付 岩手日報】

  旱害善後策 協議会開かる けふ県会議事堂にて
という記事もあった。
 そして、同紙面には次のような
  美しい同情 川口少年赤十字団より 赤石の生徒達へ
凶作のため困窮せる紫波郡赤石村の生徒達をあはれと思ふ一念から岩手郡川口少年赤十字団員四百名は予てかゝる際の用意にもと昨年冬玄関を冒して氷運搬作業に従事して得た金の中を割きこの寒風に泣ける同輩を慰めんと十七日四百名を代表して村山仁の名によつて贈った
義捐活動もあったとの報道があった。

 それから、年の瀬を迎えての明石村の惨状については
【Fig.23 大正15年12月22日付 岩手日報】

  米の御飯を くはぬ赤石の小学生 大根めしをとる 哀れな人たち
(日詰)岩手合同労働組合吉田耕三岩手学生会佐々木猛夫両氏は二十一日紫波郡赤石村かん害罹災者慰問のため同地に出張したが、その要領左の如し
 一、役場
(イ)植付け反別は四百一反歩でかん害総面積は三百十五町歩、その中収穫なき反別は五十町歩に及び
(ロ)被害戸数は百六十戸である(同村の総戸数は五百二十五戸であるから同村三分の一は米一粒も取らなかつたといふ事が出来る)このうち小作人の戸数は六十戸である。
(ハ)大豆は半作でその他の陸物収穫あったけれども一家の口を糊するにたらず
(ニ)同村の平年作は一万四千二百九十四石であるが今年度は八千百八十石減を見た。毎年七千石の移出米を出す処であるから村で食ふだけの米がないといふ事が出来る。以上の如くして六十戸の小作人は非常に苦しい生活を続けて居る。今度応急の救済方法として製筵機五十台をすえつけ生産に当たらしめてゐるのが一日の同収入僅かに三十銭に充たざるを以て衣食を凌ぐにたらず
 二、学校
全然昼飯を持参せざる者二三日前の調査よれば二十四人に及びその内三人は昼飯を持参されぬ事を申出でゝ役場の救済をあふいでゐる(外米三升をもらつた)又学用品を給与した者は十六人であるが、昼飯の内に麦粟をまじへてゐるもの殆ど三割をしめてゐる
 罹災者二戸に就いて調べた処に依れば今年田八反歩を仕つけたが収穫はたゞ三俵である。その内一俵を小作米としてをさめた、ほかはもう食い尽くした。収入の途は炭俵を作って売るも萱代縄代を差ひけば一つ三銭五厘位のものだから一日八ッを編んでも手に取る処幾ばくもない。しかも家族は七人ある。生活の惨憺たる事は想像以上である。他の一軒を見まはつたが同様全然収入なし、職業もないので炭俵を作って居た。シウトの家から縄をもらって居ると云ってゐたが、どんな御飯をくつて居るのかとのぞいて見たら大根六分砕けた米二分粟二分位なものであった。麦買ふ金もないのである。
 三、出稼
血気の若い衆は酒つくりに出稼ぎしたが、その送金を得ていくらか助かるのであらふが、これとても一月十円を送れば関の山で罹災者の窮状は日を追うて劇しくなるだらう。
ということで、特に、この記事の中の
  同村三分の一は米一粒も取れなかつた。
という旱害被害の酷さに吃驚してしまうし、学校にお弁当を持って行けない多くの子どもがいたことが哀れでならない。あの松田甚次郎はこの直後の12月25日に明石村を訪れて慰問しているが、おそらく彼はこの12月22日の上掲記事を見てそうしたに違いない。
 また、同紙面にはこの記事に引き続き次のような報道もあった。
  旱害救済のために 学生が炭売り 県山林課で 木炭を提供する
在京岩手学生会が木炭を販売してその純益を旱害救済に向くべく木炭提供の交渉のため代表者佐々木猛夫君が来県したが二十日県山林課を訪ひ交渉する処あつたが山林課でも之を快諾しさし当たり県の倉庫に十車池袋組合倉庫にも相当あるので、之を提供する事となつたと来る二十六日ころ県出身者三十名の学生が車を引いて炭売りに歩くであらう
これは、先の在京岩手学生会の記事
   佐々木猛夫君来県したなほ第三案として学生が県の木炭を販売
のその後を報道したものである。在京学生の社会正義に溢れる行為が清々しいし。

 なお、大正15年12月25日に大正天皇の崩御があり、その後はしばしその関連報道が紙面の殆どを占めることになる。
 そしてこの崩御の日に松田甚次郎は「友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた」ということになる。

 よって、大正15年も押し詰まるにつれて紫波郡は大干魃になることは明らかになっていったから、賢治はもちろん居ても立ってもいられなくなって、しばしば羅須地人協会のメンバーと一緒に出かけていって救援活動をしていたであろうと思ってしまう。が、残念がらそのようなことを賢治がしたという証言も資料も見つからない。
 それどころか、賢治は大正15年12月2日に上京した。そして、上京後の賢治を『新校本年譜』で見直してみると、
一二月三日(金) 着京し、神田錦町三丁目一九番地、上州屋の二階六畳に下宿を決め、勉強の手筈もととのえる。
一二月四日(土) 前日の報告を父へ書き送る(書簡220)
一二月一二日(日) 東京国際倶楽部の集会出席(書簡221)
一二月一五日(水) 父あてに状況報告をし、小林六太郎方に費用二〇〇円預けてほしいと依頼(書簡222)。
一二月二〇日(月) 前後 父へ返信(書簡223)。重ねて二〇〇円を小林六太郎が花巻へ行った節、預けてほしいこと、既に九〇円立替てもらっていること、農学校画の複製五七葉額縁大小二個を寄贈したことをしらせる。
一二月二三日(木) 父あて報告(書簡224)。二一日小林家から二〇円だけ受けとったこと、二九日の夜発つことをしらせる。
となっている。ということは、賢治は12月に花巻に居た日はせいぜい12月1日~2日、12月30日~31日の4日だけであったと言えそうだ。その頃の賢治が紫波郡の旱害の惨状をどれだけ認識していたかは知る由もないが、この賢治年譜から判断する限りでは、殆ど気にしていなかったと言われても致し方がなかろう。大干魃の惨状とは程遠い、「二〇〇円」もの大金の無心などがあったから、なおさらにだ。

 どうやら、賢治はこの「ヒデリノトキハナミダヲナガ」したとは言えそうにない。
 それにしても不思議なことは、この時の大干魃に関して、賢治がどのように振る舞ったのかということを著名な賢治研究家の誰一人として論じていないことだ。それともそれは私の管見故の誤解なのだろうか。

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