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賢治を有名に

2021-01-09 20:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店、昭和13年5月)〉

 では今回は「余波――宮沢賢治を天下に紹介」という項からである。
 そこには、
 『土に叫ぶ』の公刊は、小作農問題をはじめとする農村社会の抱える実情を広く明らかにし、最上共働村塾の独特の青年教育の方法を全国に知らしめることになった。
 それだけにととまらず…投稿者略…宮沢賢治を広く天下に紹介する役目を果たした。
 今日でこそ「二十一世紀の思想家」「稀有の天才詩人、童話作家」といわれる宮沢賢治だが、昭和十三年頃、ごく限られた詩人や文壇人には高い評価を受けていたが、一般には殆ど知られていなかった。…投稿者略…
 その宮沢賢治の名前を狭い文壇から国民大衆の間に広く紹介し、定着させたのが松田甚次郎だといっても過言ではないのである。
              〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』(安藤玉治著、農文協)149p~〉
ということがまず述べられていた。
 たしかにそのとおりである。それはまず、同書は驚異的なベストセラーになったからである。しかも、同書の目次と巻頭はどうなっていたのかというと、
【目次(抜粋)】

【巻頭(抜粋)】


      一 恩師宮澤賢治先生
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
    …(投稿者略)…
 先生は嚴かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出來ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで歸鄕し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「學校で學んだ學術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を學校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。…投稿者略…默つて十年間、誰が何と言はうと、實行し續けてくれ。そして十年後に、宮澤が言つた事が眞理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、實行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覺の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
             <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)一頁~より>
となっていたからである。どういうことかというと、この『土に叫ぶ』は多くの人に読まれたわけだし、その巻頭に何があったかというと、
    一 恩師宮澤賢治先生
という項があったので、当時は宮澤賢治の名前もその作品も全国的には殆ど知られていなかったから、甚次郎を小作人にし、農村劇を上演させ続けさせたこの「恩師宮澤賢治先生」とは一体何者ぞと、多くの読者たちが興味・関心を持ったということは疑いようがない。
 そこへ、もってきてすかさず、
 その松田が編者となり、翌昭和十四年三月、同じ羽田書店より『宮澤賢治名作選』が刊行された。出版後間もなくこの書も文部省推薦となり、売りに売れた。…投稿者略…戦時下でも宮沢賢治の本は売れたのである。
              〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』(安藤玉治著、農文協)150p〉
ということである。よって、多くの人々がこの『名作選』を読んだということも当然であったであろう<*1>。
【『宮澤賢治名作選』】

 なお、右側の箱入りのものは600頁弱で、定価が3円もした昭和17年発行のもの、左側の台形に近い裁断がなされているものは昭和21年発行のもの(3分冊のうちの上巻)である。
 ちなみに、前者の場合の中身・目次は下掲のとおり。
扉 (写真)面影 手帖

 (写真)詩碑
セロ弾きのゴーシュ
やまなし
ざしき童子のはなし
よだかの星
朝についての童話的構図
 (写真)岩手山
くらかけ山の雪
春と修羅
岩手山
高原
原体剣舞連
永訣の朝
松の針
無声慟哭
青森挽歌
 (写真)注文の多い料理店
注文の多い料理店
烏の北斗七星
祭の晩
貝の火
オツペルと象
雁の童子
 (写真)羅須地人協会
五輪峠
早春独白
花鳥図譜七月
 (写真)イギリス海岸
牧歌(譜入)
精神歌(譜入)
イギリス海岸の歌(譜入)
飢餓陣営
 (写真)バナナン大将
種山ヶ原の夜
植物医師
ポランの広場
 (写真)ポランの広場

稲作挿話
野の師父
和風は河谷いっぱいに咲く
 (写真)風の又三郎
風の又三郎
岩手公園
橋場線七つ森下を過ぐ
烏百態
干害地帯
月天上穹
早春
選挙
老農
北守将軍と三人兄弟の医者
グスコーブドリの伝記
農民芸術概論綱要
 (写真)筆跡
雨ニモマケズ
手紙一
手紙二
(短歌 辞世)
宮澤賢治略歴
後記

 そして巻末にはこんな広告、

があり、『土に叫ぶ』も『宮澤賢治名作選』も共に、たしかに文部省推薦<*2>であったことが判る。
 よって、松田甚次郎編のこれらの二書が宮澤賢治とその作品を有名にしたといっても過言ではなかろう。なにしろ、この『名作選』(昭和14年3月)以前に出版されていた賢治の全集は、『宮澤賢治全集』(文圃堂、全三巻、昭和9年10月~10年9月)だけだし、それ程の部数が発売されたわけではないのだから(ちなみに『宮澤賢治全集』(十字屋書店版)の出版時期は昭和14年6月~19年2月)。
 それから、この巻末の広告を見比べていると気づくことは、『風の又三郎』の著者名は宮澤賢治となっているのに、『宮澤賢治名作選』は「宮澤賢治著」はなくて、「松田甚次郎編」となっていることに、である。よってこの事実は、吉田コトの証言、
 だって甚次郎さん『土に叫ぶ』のベストセラー作家だもん。んで、甚次郞さんに名前を使いたいって電話したんだ。そしたら、「あー、いいよ」って。羽田さんとしても賢治で売ろうとしたんじゃなくて、甚次郞さんの名前で売ろうとしたんですよ。
             〈『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)、20p〉
を裏付けている。なお、その『風の又三郎』は下掲のようなものである。


 畢竟するに、『土に叫ぶ』の出版によって(その余波として)、初めて「宮沢賢治を天下に紹介」したとたしかに言えるだろう。

<*1:投稿者註> このことに関しては、〝『宮澤賢治名作選』の貢献〟や〝松田甚次郎の貢献〟等をご覧いただきたい。
<*2:投稿者註> 


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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通りです。

 そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。




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