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「松田甚次郎略年譜」

2020-10-01 12:00:00 | 甚次郎と賢治
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉

 かつて投稿した〝186 松田甚次郎の年譜〟を、この『追悼 義農松田甚次郎先生』所収の「義農松田甚次郎先生略年譜」も参考にして改訂してみた。
****************************<松田甚次郎 年譜>*****************************   
明治42年3月3日   山形県最上郡稲船村大字鳥越字駒場に生まれる
大正4年4月     稲村小学校→日新尋常高等小学校 に入学
大正12→11 年4月  山形県立村山農学校に入学
大正13年       村の住職田宮真龍とともに日曜学校を開く
大正15年3月     村上農学校卒業
大正15→14 年4月  盛岡高等農林学校農業別科入学
大正15年12月25日→昭和2年3月8日 下根子桜の賢治宅を訪れる
昭和2年3月8日    旱魃に苦しむ紫波郡赤石村を見舞い、同日午後<*1>、宮沢賢治を訪ね
          「小作人たれ、農村劇をやれ」という”訓へ”を受ける
昭和2年3月     盛岡高等農林学校別科終了(別科は1年制)
昭和2年4月     帰村、父より六反歩の田地を借りて小作人となる
   〃      鳥越倶楽部結成
昭和2年8月8日   自作戯曲を携え花巻へ、賢治の助言を仰ぐ、「水涸れ」の題名は賢治が命名
昭和2年9月10日  鳥越八幡神社境内に土舞台で、農村劇「水涸れ」を公演
昭和3年春     茨城県友部の日本国民高等学校入学
昭和3年      宮澤賢治を訪問(『土に叫ぶ』8p)
昭和4年1月    日本国民高等学校終了
昭和4年3月    鳥越倶楽部に女子部結成
昭和4年7月15日  神社境内で盆踊り公開
昭和4年夏     街頭で禁酒演説
昭和4年9月10日  農村劇初舞台記念日とする
昭和4年冬     青年学校夜間部で教鞭をとる
昭和5年4月    ホームスパンの研究開始
昭和5年      母の会結成、母子の保健厚生運動に乗り出す
昭和5年9月15日  八幡神社にて農村劇上演
昭和6年2月    大日本聯合青年団指導員養成所第一回生として入所
昭和6年8月    小野武夫来村を期にで、村共有地農村問題の講演会を開く
昭和6年      賢治から「わたしはもうこの生命が終わりに近い」という意味の手紙を貰う。
昭和7年5月10日  寺崎睦子と鳥越八幡神社にて神前結婚
昭和7年8月    地下麹室をつくり、全部落の麹を生産
昭和7年8月14日  最上共働村塾を創立、二週間の講座開講
昭和7年12月    全国篤農青年大会に出席、農村更正の演説を行う
昭和7年      左翼思想の持ち主との風評がたつ
昭和8年1月1日~  上京、小野武夫宅に滞在
昭和8年1月14日  有栖川宮記念更生資金授与
昭和8年3月    塾生5名を迎え、第2回の開塾
昭和8年4月12日  塾舎完成
昭和8年4月     鳥越出産相扶会結成
昭和8年5月1日   鳥越共働組合農繁期託児所開設
昭和8年10月30日  鳥越記念隣保館落成
昭和9年4月1日   村塾長期第一回開塾
昭和10年6月    農繁期共同炊事設置
昭和11年6月    共同浴場完成
昭和11年7月20日  塾の休止を決意
昭和11年8月    塾と実家の経営を合併
昭和12年1月20日  新庄町平和館において「農村劇と映画の夕」開催
昭和12年8月    実家の都合により村塾を一時閉鎖
昭和12年11月   村塾を辞し鳥越に帰る
昭和13年     肋膜炎と中耳炎で療養
昭和13年3月3日  日本協働奉仕団の活動開始
昭和13年5月18日  「土に叫ぶ」出版
昭和13年8月    「土に叫ぶ」が新国劇一座により上演
昭和13年11月13日 雨ニモマケズ詩碑に詣で、10年間の業績報告、「土に叫ぶ」を捧げる
昭和13年11月14日  六原青年道場見学
昭和13年11月15日  渋民・啄木の碑訪う
昭和14年1月10日  「土に叫ぶ館」落成
昭和14年2月     盛岡(弘前野砲第八連隊)にいた吉野新平を2週連続訪問
             (『月刊すばらしい山形(1991,12)』の中の「思い出」(吉野新平))
昭和14年3月7日   松田甚次郎編集「宮沢賢治名作選」出版
昭和14年3月22~24日 花巻町の南城振興共働村塾開塾にあたり訪花、指導
昭和14年5月27日  「土に叫ぶ館」焼失
昭和14年9月3日   「土に叫ぶ館」再建着工
昭和14年9月8日   賢治詩碑を訪ねる(塾生と東北旅行の折)(『拡がりゆく賢治宇宙』95p)
昭和14年11月7日  水沢にて「農村指導員講習会」の講師 
昭和14年12月3日  「土に叫ぶ館」再建
昭和14年12月22日  胆沢郡南都田小学校での講演会
    12月23日  来花して詩碑参拝、午後胆沢相去村青年団の講習会
昭和15年2月24~25日 塾生と共に花巻旅行
     2月24日  南城振興共働村塾第3回開塾の際の講師として来花
     2月25日     〃    にて「農村振興体験発表会」指導批評
     2月26日  花巻農学校にて全校生に対し講演、赤石小学校にても講演
昭和15年9月8日   南城振興共働村塾第4回講師
     9月9日  南城小学校作業耕地サイロにてインシレージ作製指導
           午後盛岡市外中野村字門男女青年団及び民に講演
     9月10日  平泉
昭和16年1月    「村塾建設の記」出版
昭和16年3月    「新しき生活の建設」山形放送局より全国放送
昭和16年8月    農村演劇講座開催
昭和16年9月28日  共働村塾10周年記念式挙行  
昭和17年3月    「野に起て」出版
昭和17年9月2日   盛岡農学校で講演(『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)16p)
昭和17年9月21日  花巻賢治忌に出席(『修羅はよみがえった』(宮澤賢治記念会)304p)
昭和17年11月    朝鮮紀行
昭和17年12月15日 「続 土に叫ぶ」出版
昭和18年3月13日  宮澤家を弔問(岩手最上の会)(『拡がりゆく賢治宇宙』95p)
昭和18年7月8日→9日  雨乞祈願のため、八森権現に登り祈願、疲労甚だしく帰宅
昭和18年7月    中耳炎再発、急性心臓内膜炎併発、新庄町楠病院入院
昭和18年8月4日  午前9時逝去、享年35歳
昭和18年8月6日  如法寺にて葬儀、法名鳳祥院円通共働居士
昭和18年9月5日  部落会、最上の会共催追悼式挙行
昭和18年11月26日 最上共働村塾閉塾

<*1:投稿者註> この日(大正15年12月25日)の「旱魃に苦しむ紫波郡赤石村を見舞い」というのは事実誤認であり、正しくは大正15年12月25日のことである。また、宮沢賢治を訪ね」たのは昭和2年3月8日の午前中からである。

 この略年譜(まだもう少し幾つか確かめねばならぬ点もあるが)からだけでも、なるほど、松田甚次郎は東奔西走したのだということが判る。しかしながら、甚次郎はあっけなく35歳で斃れてしまったのだ。とても惜しまれながら。そのことが、この度『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)を実際に読んでみるとなおさらよく解った。

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《出版案内》
 この度、『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))

を出版しました。
 本書の購入を希望なさる方は、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
                        電話 0198-24-9813
 なお、岩手県内の書店における店頭販売は10月10日頃から、アマゾンでの取り扱いは10月末頃からとなります。             
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