みちのくの山野草

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高村光太郎の随筆『獨居自炊』

2019-02-19 08:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)

 さて、高村光太郎の随筆『獨居自炊』
            〈『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)〉
だが、その発行は昭和26年6月だった。したがって、光太郎は昭和20年花巻に疎開しているから、いわゆる「自己流謫」していた時の出版となる。
 そして、この随筆集の巻頭を飾るのが、まさに「獨居自炊」という随筆であった。
   獨居自炊
 ほめられるやうなことはまだ為ない。
 そんなおぼえは毛頭ない。
 父なく母なく妻なく子なく、
 木っ端と粘土と紙屑とほこりとがある。
 草の葉をむしつて鍋に入れ
 配給の米を餘してくふ。
 私の臺所で利休は火を焚き、
 私の書齋で臨濟は打坐し、
 私の仕事場で造花の營みは遅々漫々。
 六十年は夢にあらず事象にあらず、
 手に觸るるに隨って歳月は離れ、
 あたりまへ過ぎる朝と晩が来る。
 一二三四五六と或る僧はいふ。
             ―昭和一七・四・一三―
               <『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)より>
 しかしよく見てみると、この「獨居自炊」が書かれ時期は「昭和一七・四・一三」ということになる。そこで私は誤解していたことに気付く。この随筆集の発行は昭和26年だから、この巻頭の「獨居自炊」は太田村山口に疎開している頃に書いたものだろうと当初は思っていたのだが、これは昭和17年にしたためたもののようで、光太郎は早い時点から自分の生活を「獨居自炊」と規定していたということになるだろう。実際調べてみると、たしかに光太郎は昭和14年から、つまり花巻疎開以前から、東京のアトリエで既に独居自炊生活を送っていた<*1>のだった。

 もちろん花巻に疎開してからも光太郎は太田村山口で、まさしく「獨居自炊」生活をしたいたわけだから、疎開7年目の昭和26年に『獨居自炊』という随筆集を出版するのは至極自然で、そのタイトルはさもありなんと当時の人たちは思ったに違いない。  
 そこで私は直感が働いた、
 この昭和26年の随筆集『獨居自炊』が〝この変化の切っ掛け〟だったのではなかろうか。
と。つまり、当初は賢治の下根子桜時代の形容としては使われていなかった〝独居自炊〟という修辞であったが、この光太郎の昭和26年随筆『獨居自炊』の出版が切っ掛けとなり、この時を境にして賢治に対しても使い出されたのではなかろうかと。

<*1> HP「高村山荘」の「高村光太郎年譜」によれば、 
昭和13年 1938 55歳 智恵子がゼームス坂病院で没す。
昭和20年 1945 62歳 4月13日、空襲によりアトリエ炎上。
ということだから、たしかに、昭和17年当時の光太郎は東京で「独居自炊」の生活を送っていたことになるだろう。

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