みちのくの山野草

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2026 T15/12/25甚次郎は賢治を訪ねず

2011-03-04 09:00:00 | 賢治関連
《松田甚次郎の大正15年の日誌》(平成23年2月26日撮影)

 以前〝松田甚次郎下根子桜への初訪問日?〟において投稿したように、『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山書房、初版)や同私家版には
     84 師とその弟子
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。

と記述されていたので、この日が初めて松田甚次郎が宮澤賢治を下根子桜に訪れた日とばかり思っていた。

 しかし一方では、この当時は賢治は滞京中のはずであって、当然花巻に不在のはずであるからこれらの間には矛盾があるとも思っていた。

 ところが、平成23年2月26日、私は幸いにも松田甚次郎の日記(大正15年と昭和2年分)を見ることが出来た。
 すると、大正十五年(昭和元年)十二月二十五日の日誌の内容は以下のとおりだった。
 1926 12月25日(土)戌子 クリスマス
    …
  9.50 for 日詰 下車 役場行
  赤石村長ト面会訪問 被害状況
  及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
  国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
  分配、二戸訪問慰聞 12.17
  for moriork ? ヒテ宿ヘ
  後中央入浴 図書館行 施肥 no?t
  at room play 7.5 sleep
  赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
  聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
  人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
  タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
  明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
  余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
  困ツタモノデシタ

  快晴  赤石村行 大行天皇崩御


したがってこの日記に従うならば、松田甚次郎はこの日は花巻にではなくて大旱魃のために飢饉一歩手前のような惨状にあった赤石村を慰問していたことになる。盛岡に帰る際に12:17分の汽車に間に合うようにと走りに走ったので足が痛いというようなことを語っている。したがって慰問後は直盛岡へ帰ったことになり、赤石村慰問後の午後に花巻へ足を延ばしてはるわけでもない。因みにこの日に購入した切符は日詰までのものであって、花巻までのものではなかったことも確認できた。

 というわけで、一般には他人の著書よりは本人がしたためた日記の中味の方が遥かに信憑性が高いだろうから、松田甚次郎本人の日記から

 松田甚次郎の赤石村慰問は一般に3月8日の午前と思われているようだが慰問したのは大正15年12月25日であるし、この12月25日に甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねてはいない。

と結論していいのではなかろうか。

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