《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
賢治の最高級チェロ一式は200円程度大正15年12月2日の「現通説」は上京の際に「賢治はチェロを持って、澤里武治一人に見送られて上京した」となっているが、このことは裏付けがなされていることではなく、それは昭和2年の11月頃のことであると言えるということを先に私は実証した。つまり、大正15年12月の上京時に賢治は「チェロ」 を携えていたという「現通説」は裏付けがあるわけではない。そのことは、常識的に考えれば当時の書簡からも傍証できる。なぜならば、当時の政次郎宛書簡にオルガンのことは書いてあっても、チェロのことは一切書いていないからだ。「現通説」どおりわざわざこの時にチェロを持って上京していたならば、オルガンのことは伝えているのにチェロに関することを一切伝えていないということは常識的にはありえなかろう。
一方、この上京の際に賢治は大津三郎からチェロの特訓を受けた可能性が極めて大である(「三日でセロを覺えようとした人」(『昭和文学全集第十四巻 宮澤賢治集』の月報(『昭和文学全集 月報第十四號』)より))。しかも、チェロを手に入れたのもこの滞京期間の終盤(大正15年12月下旬)にであろうと言えそうだ。なぜなら、その滞京中に「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」と賢治は言っていたという<*1>ことだから、そこからは念願のチェロは入手できたが、ほどなく花巻に戻らなければならないので時間的余裕がなかったからそのような無理なお願いを賢治はしたのだという推察ができるからである。
そして、藤原嘉藤治によれば「そのうちに宮沢君もチェロが欲しくなったのか、東京で一八〇円だかで買ってきました」(『宮沢賢治 第5号』(洋々社)22pより)ということだから、それは当時の最高級チェロの値段である。しかも、横田庄一郎氏によれば、賢治は「セロ箱」も持っていたと言えそうだ<*2>から、当時賢治がチェロを購入するためには「箱代」も含めれば、その最高級チェロ一式の値段は200円程度はしたであろう。
一つの思考実験
では、以下に一つのある思考実験をしてみる。
するとここで直ぐに思いつくのが件の父への「二〇〇円」の無心である。それも、賢治は父宛書簡でそのことを何度か繰り返し伝えていたが、それは常識的に考えればもちろん急遽大金「二〇〇円」を是非ともほしくなったからであり、その金額とタイミングから言ってその「二〇〇円」は最高級チェロ一式の購入代金だったという蓋然性がかなり高かろう。ちなみに、12月12日付政次郎宛書簡においてオルガン演奏を褒められたと賢治伝えてはいるが、先にも述べたようにそれは「嘘」であることはほぼ間違いなく、そこから窺えることは次のことだ。この時点で賢治はオルガンについて自分の適性がないのだと実は見切り、熱しやすく冷めやすい天才肌で不羈奔放な賢治のことだからさっさとチェロに乗り換えたという可能性が大だということである(と考えた方が私にとっては遙かに説得力がある)。
そこで、その購入費用としての「二〇〇円」を政次郎に無心する一方で、「小林氏に参り候際御葉書趣承候儘金九十円御立替願候」ということで立て替えてもらった「九十円」、あるいは「小林様から一昨日内二十円だけいたゞきました」という「二十円」を頭金としてチェロを手に入れた賢治は、せっかちな性向の強い賢治のことだから、早速まずは尾崎喜八の自宅を訪ねた<*3>。その尾崎喜八は「雲の中で苅つた草」において次のような証言
多分四五年前になると思ふが、彼は上京中の某管弦樂團のトロンボーン手をその自宅に訪問した。海軍軍樂隊出身の此樂手は私の友人で、一方セロも彈き詩が好きで、殊に「春と修羅」のあの男らしい北歐的なノルマン的な、リヽシズムを愛してゐた。其時の宮澤君の用といふのが、至急簡單にセロの奏法と手ほどきと作曲法の初歩とを教授してくれと云ふのだつた。併し之はひどくむづかしい註文で遂に實現出來ず、やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つたのだが、その熱心さには、ワクナアのファンファールを吹き抜いて息一つ彈ませない流石のトロンボーン手さへ吐息をついて驚嘆してゐた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)203pより>をしている。もちろんこの〝トロンボーン手〟とは大津三郎のことであり、賢治が大津の自宅にチェロの特訓を受けに行った際のことを語っていることになろう。なお、その特訓期間は通説では〝三日間〟となっているが尾崎の言うところの〝一日か二日〟でも似たようなもので、いずれその期間は短期間であったということをこの証言は裏付けていると言える。しかも、「やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つた」ということだから、賢治は帰花直前、すなわち先に述べた「滞京期間の終盤」にチェロを入手したであろうことをもこの証言は裏付けてくれる。
さて、そのチェロを下根子桜に持ち帰った賢治は阿部孝の前でそれを早速弾いてみせたのであろう。そのエピソードこそがまさしく「大正の終わる頃」というタイトルの阿部孝の追想
二、チェロを弾く賢治
いつの頃からか、賢治は、野中の一軒家のあばら屋にひとり籠もつて、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
チェロを弾くといえば、聞こえがいいが、実はチェロの弦を弓でこすつて、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いつぱいで、それだけでひとり悦に入つていたのである。
<『四次元 百五十号記念特集』(佐藤寛編、1963.7)24p~>いつの頃からか、賢治は、野中の一軒家のあばら屋にひとり籠もつて、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
チェロを弾くといえば、聞こえがいいが、実はチェロの弦を弓でこすつて、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いつぱいで、それだけでひとり悦に入つていたのである。
であり、このタイトル「大正の終わる頃」そのものからも「ぎいん、ぎいんとおぼつかない音を出」していた時期は大正15年末のことであるということが読み取れるし、明けて昭和2年の賢治の日記の記述によって、帰花後から賢治はチェロの練習を開始したことが、それもチェロのほんの初歩のそれであることがわかる。
無心した大金「二〇〇円」は最高級チェロ一式の代金
したがって、もし賢治が「現通説」どおり大正15年12月にチェロを携えて上京していたとすれば、ここまで述べてきたこととそれは常識的には矛盾するから、それよりは
賢治が最高級チェロ一式を入手したのは大正15年12月の帰花直前であり、その購入費用のために賢治は父に「二〇〇円」の無心をした。
ということの方が事実であり真実であったという蓋然性が遙かに高いことが、この思考実験結果から言えるだろう。どうやら、これが「二〇〇円」の無心を賢治が父に繰り返したことの意味であったとなりそうだ。ついでに言えば、横田庄一郎氏によれば、
羅須地人協会のきびしくなっていく生活が続いて、賢治は一九二八(昭三)年夏に病に倒れ、実家に戻った。このときになって初めて、父親政次郎は賢治がチェロを持っていることを知った。佐藤泰平・立教女学院大学教授が賢治の弟清六さんから聞いた話である。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽の友社)85pより>ということだから、父政次郎は賢治が病気になって実家に戻るまでは賢治がチェロを持っていることを知らなかったということになる。これは逆の見方をすれば、この時に父政次郎に無心した大金の「二〇〇円」は最高級チェロ一式を購入するためのものであったので、そのことを賢治は政次郎に覚られたくなかったからこうなったのであろうという見方も十分成り立つ。
先に私は、「その第一の目的は古里を離れて、前々から願っていた東京での生活を久々にしてみたかったからだということさえも否定できなくなってしまった」とつい述べてしまったが、どうやらリトマス試験紙の色は変わり始めたようで、このような見方はもはや一概には否定できなさそうだ。だからますます、賢治の当時の言動と古里の惨状とはあまりにもかけ離れていたと私には見えてきた。
<*1:註> 重本恵津子氏によれば、
賢治が尾崎家を訪問した用件は
「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」ということであった。
<『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』(重本恵津子著、河出書房)71p~より>「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」ということであった。
<*2:註> 横田庄一郎氏によれば、
賢治がチェロを習いに上京するとき、教え子沢里武治は、この箱にヒモをつけて運んでいった。ヒモは縄だったという。
(『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)より)<*3:註> 同じく重本恵津子氏によれば、
賢治生前の唯一の詩集『春と修羅』が千部自費出版されたのは大正十三年(一九二四年)である。そして賢治はそれを喜八に贈呈しているのである。
≪或る日幾つかの郵便物にまじって、その畑中の一軒家へ一冊の詩集が届けられた。差出人はとい岩手に住んでいる未知の人で、タンポポの模様を散らして染めた薄茶色の粗い布表紙の背に、「詩集 春と修羅 宮澤賢治作」とあった。私もその頃『高層雲の下』の原稿をまとめていたが、今と違って知らない人から自著の寄贈を受けることなど稀だったので、新婚早々のおおらかな気分、世の中との新しい交わりや人の訪れを広々と迎えようとする気持ちも手つだって、この未知の詩人からの贈り物を一つ大いなる祝福のように喜んだ。ときに宮澤賢治二十八歳、私は三十二歳だった≫(「尾崎喜八資料」第七号)
ということだから、賢治は尾崎の住所を以前から知っていたと推測できる。≪或る日幾つかの郵便物にまじって、その畑中の一軒家へ一冊の詩集が届けられた。差出人はとい岩手に住んでいる未知の人で、タンポポの模様を散らして染めた薄茶色の粗い布表紙の背に、「詩集 春と修羅 宮澤賢治作」とあった。私もその頃『高層雲の下』の原稿をまとめていたが、今と違って知らない人から自著の寄贈を受けることなど稀だったので、新婚早々のおおらかな気分、世の中との新しい交わりや人の訪れを広々と迎えようとする気持ちも手つだって、この未知の詩人からの贈り物を一つ大いなる祝福のように喜んだ。ときに宮澤賢治二十八歳、私は三十二歳だった≫(「尾崎喜八資料」第七号)
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