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第四章 賢治終焉前日の定説も杜撰 ㈠ 賢治の聖人化

2024-07-02 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

  第四章 賢治終焉前日の定説も杜撰
 ところで、終戦後、「雨ニモマケズ」の「玄米四合」が「玄米三合」に改竄されて教科書に載ったという。

  ㈠ 賢治の聖人化
 具体的には、例えば国定教科書『中等国語一 ⑴』(昭和23年2月7日修正発行)には、「雨ニモマケズ」の「玄米四合」が「玄米三合」に改竄されて載った
 このことに関しては、小倉豊文は次のようなことを述べている。
 ……(賢治は)農業・農民の方面から神格化が著しかった。これは賢治が農学校教師であり、農村の技術指導者であったが故ばかりではなく、前述したように当時の日本政府が満州の勢力確保の為に国民の満州移民を強行し、強引に設立した満州国が、「王道立国・五族協和」をスローガンとしていた為に、これら新古・内外の農民の精神的支柱に賢治が利用されたからである。…筆者略…。日本においても時局に伴う農村・工場・事業等の強制労働鼓舞の為に、「雨ニモマケズ」が利用されたことが頗る多く、詩集・童話集・伝記的著作の出版も枚挙に暇がなき程だったのである。〈『雪渡り 弘前・宮沢賢治研究会誌』(宮城一男編、弘前・宮沢賢治研究会)51p~〉
 さらに、小倉はこんなことも言っていた。
 この詩に対する敗戦後の今一つの問題は、戦時中に国民の「国策」協力に利用されたのと同様、占領下の義務教育改革による新学制の文部省編纂中学校用国語教科書に採用されたことであろう。内容が変わっても権力体制に奉仕するのが官僚の常であるとはいえ、この採用に当たって原文に「一日ニ玄米四合ト……」とある所の「四」を「三」と変改したのは失笑以上の何物でもなかった。主食配給一人一日二合五勺であったことを、既に当時を知らぬ人の多くなっている現在の為に書き添えておこう。〈『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)149p〉
 結局、賢治は、そして「雨ニモマケズ」は、第二次世界大戦中も大戦後も、都合良く国に利用されたということになろう。しかも、戦後は賢治の詩が、あろうことか改竄までされてである。
 なお、この経緯については孫引きではあるが、石森延男は、
 戦後、わたしは、国定の国語教科書としては、最後のものを編集した。終戦前に使用していた国語教材とは、全く違った基準によってその資料を選ばなければならなかった。日本の少年少女たちの心に光りを与え、慰め、励まし、生活を見直すような教材を精選しなければならなかった。そこでわたしは、まずアンデルセンの作品を考えた。(中略)日本のものでは、賢治の作「どんぐりと山猫」を小学生に「雨にもまけず」を中学生のために、「農民芸術論」を高校生のために、それぞれかかげることにした。この三篇は、新しく国語を学ぶ子どもたちの伴侶にどうしても、したかったからである。〈『修羅はよみがえった』(宮澤賢治記念会、ブッキング)92p~〉
と述べているという。つまり、石森はこのように弁解しているわけだが、だからといって賢治の作品をそのために改竄していたということを知ると、私は背筋がぞっとする。戦中も戦後も賢治を自分たちに都合よく利用した人たちがいたということを、私は思い知らされるからだ。

 そして周知のように、第二次世界大戦においては多くの文学者・芸術家・文化人等が戦争に協力したという。例えば高村光太郎もしかりで、大政翼賛会中央協力会議の委員や文学報国会詩部会長を務め、多くの戦争賛美の詩を書いたという。だから光太郎はそのことを悔い、昭和20年に花巻(太田村山口)に「自己流謫」したのだそうだ。
 その一方で谷川徹三は、昭和19年9月20日に東京女子大学であの「今日の心がまえ」という講演を行い、
 「雨ニモマケズ」の精神、この精神をもしわれわれが本当に身に附けることができたならば、これに越した今日の心がまえはないと私は思っています。今日の事態は、ともすると人を昂奮させます。しかし昂奮には今日への意味はないのであります。われわれは何か異常なことを一挙にしてなしたい、というような望みに今日ともすると駆られがちであります。しかし今の日本に真に必要なことは、われわれが先ず自分に最も手近な事を誠実に行うことであります。〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)32p~〉
と語って、全く戦況の好転する見通しが立たないこの時期に、〝「雨ニモマケズ」の精神〟を身に付けるようにと谷川は聴衆に訴えたことになる。「雨ニモマケズ」を持ち出して、「自己犠牲」の精神や「滅私奉公」の精神を身に付けよと国民を鼓舞したと言えよう。となれば、谷川も光太郎と同じように悔いて「自己流謫」に相当することを戦後行ったのだろうか。そう思って、戦後の谷川のことを少し調べてみようと思った。
 すると、谷川徹三は戦後の国語教科書作成にかなり関わっていたことを、次のような論文で知った。
 ① 葛西まり子「国語教科書の中の「宮沢賢治」―「伝記教材」を視点として―」
 ② 久保田 治助・木村 陽子「第二次世界大戦後の国語教科書における〈宮沢賢治〉像―理想的人間像の変容―」
 ③ 茅野 政徳「戦後小学校国語検定教科書における宮沢賢治の伝記教材の変遷」
 例えば、この〝①〟においては、「1 昭和二十年代~昭和五十二年」という項で、谷川が当時の教科書作成に関わった事例として次のようなことを挙げていた。
 学校図書の『中学校国語二上新版』(昭和二十九年)と『中学校国語二上』(昭和三十五年)で掲載された谷川徹三による「宮沢賢治」という教材がある。…投稿者略…
 (昭和三十五年版の)本文前半における生涯の簡単な紹介の後、後半では「なくなる二―三日前のようすは、家の人たちによって伝えられていますが、これは、賢治の人がらを、もっともよくもの語っています。」として、死の前日に尋ねてきた村人の肥料相談にまつわるエピソードが中心に紹介されている。
 その夜七時ごろ、見知らぬ村人がたずねてきました。肥料のことでききたいことがあるというのです。家族は賢治の容態を知っているのでこまりましたが、とにかくとりつぎました。すると、賢治は、そういう人なら、どうしても会わなければならないと言って起きあがり、衣服を改めて、客に会いました。客は、賢治がそんなに重態だとは知らず、ゆっくり話しこみました。それを、賢治は、きちんとすわったまま、ていねいに聞き、一つ一つ指導してやったのです。家族は、気が気でありませんが、どうすることもできません。一時間ほどして、やっと客が帰ると、賢治はぐったりととこにつきました。
〈『慶応義塾大学学術情報リポジトリ 2005」所収〉
 よって、この論文に従えば、谷川はあの賢治終焉前日の面談を戦後になってからもとても重視していたと感じた。すると思い出すことは、谷川はあの講演「今日の心がまえ」でも、
 父親にそういう風に言ったその夕方七時頃、近くの村の人が一人、賢治を訪ねて来ました。肥料のことでお聞きしたいことがあると言うのであります。重態の病人でありますから家人は躊躇しましたが、とにかく、その旨を賢治に伝えますと、そういう人ならどうしても会わなければならないと、直ぐ床から起きて、着物を着かえて玄関に出て、そうとは知らぬ村の人のゆっくりした話を、少しも厭な顔をしないで聞いて、そうして肥料の設計に就いてのくわしい指示を与えてかえした。……▲〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)16p~〉
と同じようなことを聴衆に語っていたことをだ。よって、谷川は「今日の心がまえ」において戦意昂揚を訴えった際に語ったこの〝▲〟とほぼ同じことを、〝戦後の教科書にも載せていたということになるから、光太郎のようには戦争協力を悔いてはいなかったようだ。逆に、賢治を戦意昂揚に使えたという経験から、戦後でも賢治は使えると思ったのだろうか。それとも、それは自己弁護だったのだろうか。
 次に私は、論文〝③ 「戦後小学校国語検定教科書における宮沢賢治の伝記教材の変遷」〟によって、戦後宮澤賢治の教材が多用され続けてきたということも知った。
 そして、この「多用」については、論文〝② 「第二次世界大戦後の国語教科書における〈宮沢賢治〉像―理想的人間像の変容―」〟に掲載されている、「「雨ニモマケズ」関連テクストの採択率」の表からも端的に示唆された。
 また、この茅野氏の同論文には、賢治伝記教材の一覧表が載っていて、
 昭和20~30年代に掲載された伝記教材(古谷綱武の「伝記を読みましょう」や谷川徹三の「宮沢賢治」等)を分析すると、聖人・賢人・善意の人としての賢治像が強調されていることがわかる。
と述べていた。このことは、それぞれの執筆者からも示唆される。それは、谷川徹三とその谷川に師事した古谷綱武だからである。そして谷川だが、あの講演「今日の心がまえ」の始めの方で「雨ニモマケズ」を朗読し、「この詩を私は、明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思っています」とか「宮沢賢治の文学が賢者の文学としての性格を顕著に持っておる」と褒めちぎったことも周知のとおりである。
 さらに、茅野氏は「4-2 学校図書「宮沢賢治」」という項で谷川執筆の教材「宮沢賢治」について、次のように論を、
 「ただの詩人ではありませんでした。」と、詩人以外の面を打ち出すことを読者に知らせる。その上で、「実行の人」という側面を提出し、聖人・賢人としての賢治像を描く。…投稿者略…「賢治の死を、ブドリの死にたとえることはできないでしょうか」と、賢治の生き方を「ブドリ」と重ね合わせるのが執筆者である谷川の賢治観であり、その後長らく影響を残す。作家としての賢治よりも聖人としての賢治を描くため、「かれの創作が、美しいばかりでなく、何か特別に人の心を動かすものをもっているのも、かれの生活態度がその作品に現れているからです。」や、「なくなる2ー3日前のようすは、賢治の人がらを、もっともよくもの語っております。」として、訪ねてきた農民に「一つ一つ指導してや」る姿を描き、後半は「ねてもさめても、農民たちのことを考えていた、賢治の精神を表す童話」として「グスコーブドリの伝記」を載せる。…投稿者略…
と展開し、同氏は最後に、
 詩人、作家としての賢治の業績や価値は二の次であり、聖人としての賢治像を子どもに与えようとしているのである。
と断じていたことも知った。そして、やはり谷川は「聖人としての賢治像を子どもに与えようと」していたのだと私は改めて確信した。

 そこで私はふと立ち止まった。谷川は具体的にはどのようにして「聖人としての賢治像を子どもに与えようと」していたのか、いまひとつ見えてこなかったからだ。それは、「雨ニモマケズ」の詩や「グスコーブドリの伝記」では、小学生の子どもたちに「聖人としての賢治像」を育むことは容易(たやす)いことではないと私には思えたからだ。
 そしてその時思い出したのが、先ほどの私の直感「谷川はあの賢治終焉前日の面談を戦後になってからもとても重視していた」である。それと、茅野氏の論文中にあった、「なくなる2ー3日前のようすは、賢治のひとがらを、もっともよくもの語っております。」というこの面談についての記述もだ。
 そこで一度前に戻ってみた。すると、谷川があの講演「今日の心がまえ」で語った先の〝▲〟であれば、「賢治は農民のために自分の命まで犠牲にして尽くした立派な人だった」ということは小学生でも読み取ることが出来て、やがて、聖人・賢治像を育むようになるであろうことに気付いた。ちょうどかつての私がそうであったように。
 ただしこの際にひっかかったのが、この講演において、谷川ははしなくも、
 その最後の時の様子を序でにもう少しくわしくお話しして置きましょう。
 これは佐藤隆房という賢治の主治医であった人が、賢治の家の人から聞いたところを記しているものによっているのでありますが、二十日に愈々容態が悪くなった。
〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)15p~〉
と述べていたことだ。つまり、その典拠は、〈賢治の家の人→佐藤隆房→隆房の記述〉というルートの伝聞に拠っているのであり、谷川はその出来事を目の当たりにしていたわけでもなければ、実証的な裏付けがあるというものでもないことを知ることが出来た。逆に言えば、この典拠は確かなのだろうかという不安が私には生じるのだった。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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