みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「ヒデリノトキニナミダヲナガ」さなかった賢治

2022-03-31 12:00:00 | 賢治渉猟
《ヤマルリトラノオ》(真昼岳、平成30年7月19日撮影)
もう止めませんか、嘘かもしれない賢治を子どもたちに教えることは。

 さて、約一ヶ月の滞京を終えて大正15年末に花巻に戻った賢治は、紫波郡内の「飢饉一歩手前と言える凶饉」の惨状にさぞかし驚いたであろう。では、それにどう対応し、どのような救援活動をしたのだろうか。

 まずは、明けて昭和2年になってからの大旱害(凶饉)関連の新聞報道を見てみたい。ご承知のように、大正15年12月25日に大正天皇が崩御したからであろう、大旱害関連の報道はその直後からしばし途絶え、崩御に伴う報道が紙面の殆どを占めることになった。年が明けて昭和2年となると、1月5日の紙面に久し振りに赤石村などの旱害罹災民の報道が載った。それは新春にふさわしく明るく書かれた次のような記事であった。
【Fig.1昭和2年1月5日付『岩手日報』】旱害救済策

 赤石罹災民の造つたむしろ 二日初荷として十三噸を積出す
紫波郡赤石村にてはかん害救済策として産業組合主となりて昨年末より製筵を奨励してゐたが二日製品十三噸を初荷として塩竈方面へ積み出した
 そして、同紙面にはこれまた頼もしい次のような記事もある。
【Fig.2 昭和2年1月5日付『岩手日報』】在京学生のボランティア

 在京學生の 炭屋さん 飛ぶやうに賣れる 利益金を全部 旱害罹災者に贈る
東京岩手學生会では紫波郡下赤石地方のかん害罹災者を救助すべく學生が縣の木炭を販賣し之が利益金を困窮に喘ぐ人たちの救済に向ける事は既報の通りであるがいよいよ?ろう二十八日から販賣を開始した、二十六日から着手する筈であつたのだが大正天皇崩御のために三日間の謹慎をなし二十八日より着手した譯であるが何しろ本縣社会課を始め東京社会局及び東京朝日新聞社の後援があるので非常に仕事が捗りその上市価より一俵の手前平均三十錢方安いので着手既に三百俵の前注文有り樣で樂に五千俵位が十分に捌ける見込みである。なほ此の二三日は銀座、神樂坂等に夜店を開き廉賣を行つてゐるがこれ又とぶやうに賣れて行き學生諸君は勞苦もいとはず涙ぐましい程一生懸命で罹災者のために眞くなつて働いてゐる。なほ學生諸君
 ▲明治大学 千田?夫、昆省一、戸羽武、大内充、佐々木猛夫
 ▲早稲田大学 佐藤尚人、沢口勇平、佐々木眞
 ▲日本大学 右京政次
の九氏である
若者がボランティア活動に熱心なのは今も昔も同じだったようだ。世の中捨てたものではない。

 ところが、8日付けの紙面になると一転し、次のような記事があり、先行きが不安になってくる。
【Fig.3 昭和2年1月8日付『岩手日報』】続く米價の下落

    農村經濟は 全く破滅の苦境 米價の大崩落にて 肥料買入にも困難
ただし、この記事は日本全体についての記事であり、その内容は割愛したいが、米價についても書いてあるのでその部分だけを拾ってみると、
   米一石の値段
   大正13年12月 35円
    〃14年 〃  32円50銭
    〃15年 〃  31円

ということであった。そして、昭和2年に入ると更に下がって一石30円を割りそうな気配すらあるという。この当時は、年々米価が下がっていっていたのだ。
 そして、1月9日の『岩手日報』の第一面のほぼ全部が大旱害に関する紙面であり、
【Fig.4 昭和2年1月9日付『岩手日報』】未だかつてない旱害惨状

 未だかつてなかつた紫波地方旱害惨状 飢えに泣き寒さに慓ふ同胞 本社特派員調査の顚末發表
紫波地方昨夏の旱魃は古老の言にもいまだ聞かざる程度のものであった水田全く變じて荒野と化し農村の人たちはたゞ天を仰いで長大息するのみであった。したがって秋の収穫は一物もなかった、なんといふ悲惨事であらう、飢に泣き寒さに慄へる幼き子どもらを思ふとき我れら言ふ言葉がない、我社この哀れな同胞の實生活を調査せしむべく記者小森秀、写真班小原吉右衛門を特派したがこゝにその視察記を發表する次第である。
 赤石村に劣らぬ不動村の惨めさ 灌漑は全く徒勞に終わって収穫は皆無
不動村は赤石村に劣らない惨害を受けたが鉄道が多小離れてゐて惨害が比較的一般に知られてゐない、村役場の調査によると耕地反別五百三十一町歩中植つけ不能段別四十七町一反歩、植えつけはしたが枯れて仕舞又は結實せず収穫が皆無のもの六十三町歩、七割減収が六十三町歩、五割減収が六十八町歩、三割減が三十四町歩、三割以下の減収が三十三町歩といふ数字を示し耕地面積の半分に近い二百四十一町歩余は収穫皆無又は半作以下で地租免税の申請をなしたものが百八十六町歩に達した、ために収穫高もカン害を受けた昨年一万三百六十石の半ばにたらぬ、四千五百石で純小作百三十戸、自作兼小作二百七十戸が生活せねばならないのであるから既に生活資金に窮するに至つたのである、
 水稲のみだけでなく畑作の麦、青刈大豆等も三割以下の減収の上揚水機の設備に多額の金を投じた、動力使用の揚水機を設備したのは十ヶ所で一ヶ所平均九百圓を要し九ヶ所は買ひ入れたものであるが内早くから設備した二ヶ所である他は焼けつく様な炎天に雨を待ちどうにもならなくなつてから設備したため十ヶ所の揚水機で僅かに四町歩の旱害をなしたに過ぎなかつた、手ぼりの井戸は百八十ヶ所で之も三十円から五十圓の経費を要した之とて焼石にそゝぐ様なものカン害状態視察の得能知事が
 ??して昼夜水をかけてなん反歩の灌漑が出來るか 
と聞いて涙ぐんだほどで灌漑水については悩み苦しんだ上結果から見れば何等の効果もなかつた揚水機設備に貴重な一万余圓を空しく投じてしまつたのである。この揚水機もむなしく手をつかねて雨を待たずに設備をしたならば夫れ相當の効果はあつたのであらふも時機を失した為徒勞に帰したのみでなく更に疲弊困難に陥入るの因をなすに至った、斯くして得たる米も玄米一駄(七斗)十五六圓でもつき減りが多く『砕け』のみになるといふので買ひ人がないといふ有り様である、
 仝村に足を入れ小學校付近に行くとむなしく雪に埋づもれ朔風の吹きまくるに委せて居る水稲がある、幾つかの藁みよが並んで居るがこの藁みよには穂がついて居るが、聞くと刈つては見たが米はとれないから肥料にする外ないので積んで置くのだといふ、油汗をたらし血を流す樣な努力を重ねた結果肥料にする藁を得るに過ぎかかつた時農民の心中は如何なる思ひに滿たされたことであらう、縣ではかん害救済資金として一万五百圓を代用作物種子代と動力使用揚水機設備補助に支出することになつたが揚水機補助は兎も角代用作物種子代補助も斯くの如きは當村で馬?にする青大豆を僅かに五反歩植えつけたにすぎなかつた、之は大豆、稗其他の代用作物を植えつければ翌年の収穫に影響を及ぼすため縣でイクラ種子代を補助すると参事會に代決を求め決定しても植えつけなかつたのでこの点は縣の見込み違いで救濟方法としては當を得なかつたが通常縣會に要求の勧業奨励費二万圓の追加はかん害地の衣食に窮する農民に対しては本當に救済の實を擧げることが出來るものである
ということなどが報道されていた。
 さらには、同紙面にはこの他にも次のような見出しの記事が載っていた。
  ・水分は軽微
  ・炭俵の賣日なく赤石村民糊口の糧苦む
  ・志和も不動と大差ない惨状

したがって、この時
 紫波郡内の赤石村や不動村そして志和村等の農家は大旱害によって惨状の極み、疲弊困難のどん底に落とされていた。
ということになる。

 一方、年が改まって昭和2年となった賢治は、『昭和2年の賢治の日記帳(印刷上は「大正十六年日記」)』の〝三頁、1月1(土)〟の欄に
   国語及エスペラント
   音聲學

と、同MEMO欄には
   本年中にセロ一週一頁
   オルガン一週一課

            <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408p>
と書いている。ということは、年頭に当たって昭和2年の賢治はまず「本年中にセロ一週一頁」を第一に掲げていたということになろう。そこからは、賢治のチェロに懸ける意気込みが伝わって来るし、チェロの腕前は殆ど初心者であったであろうことも言えそうだ。オルガンは「一週一課」なのにチェロは「一週一頁」だからである。とまれ、昭和2年の賢治はかなりの意気込みで「年内にチェロが上達すること」を目指していたということはこれでほぼ明らか。
 さらに、同日記には、
1月2日 varma
1月3日 varma
1月4日 varma 
1月5日 伊藤熊蔵氏仝竹蔵氏等来訪、中野新佐久往訪
1月6日 klara m varma 
1月7日 中館武左エ門氏田中縫次郎氏 照井謹二郎氏 伊藤直美君等来訪
1月8日 venta kaj klara varma
1月10日 肥料設計
               <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)340p~>
と記載されているという。滞京中はさておき、帰花して早10日以上も過ぎたのだから紫波郡内の「凶饉」の惨状は自ずから賢治にも伝わっていっただろうがそのことに関する記述は見られない。もちろん、羅須地人協会の講義の準備ために多忙であったから救援活動まで手が回らなかったということも考えられないわけではないが、この日記の「一年の計」の内容を知ってしまうと、帰花後の少なくとも約10日間は毎日、国語、エスペラント、音聲學の学習、そしてオルガンと、とりわけチェロを熱心に練習していたであろう賢治しか浮かんでこない。

 先に私は、“この頃賢治の心は古里になく”において、賢治は前年の大正15年12月は実質丸々一ヶ月間滞京していたから、古里のとりわけ隣の郡内の赤石村等の凄まじい大干魃による苦悶を賢治は知らなかった可能性があるから、古里の農民達の苦悶などは微塵も彼の心にも頭の中にもなかったし、一人暢気に「高等遊民」らしさを発揮していたのかもしれないなどを良心的に解釈してみようとも思ってみたのだが、明けて昭和2年の1月であれば帰花していたわけだから、これらの新聞報道を賢治が知らぬわけはない。そのあげく「米價の大崩落」によって「農村經濟は全く破滅の苦境」に陥っていたことも十分にわかっていたであろう。また、この惨状を憂えて全国から沢山の救援の手が差し伸べられていたであろうということももちろんである。
 そこで私は、当時の協会員たちの証言を知って不安に襲われる。たとえば、伊藤克己が「先生と私達―羅須地人協会時代―」の中で述べている次のような証言をである。
 その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。近村の篤農家や農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。大ぶいろいろの先生が書いた植物や土壌の圖解、あるひは茶色の原稿用紙にく謄寫した肥料の化學方程式を皆に渡して教材とし、先生は板の前に立つて解り易く説明をしながら、皆の質問に答へたり、先生は自分で知らないその地方の古くからの農業の習慣等を聞いて居られた。…(略)…私達は湯を沸かしたり、大豆を煎つたりした。先生は皆に食べさしたいと云つて林檎とするめを振舞つたり、そしてオルガンを彈いたりしたのである。ある日午後から藝術講座(そう名稱づけた譯ではない)を開いた事がある。トルストイやゲーテの藝術定義から始まつて農民藝術や農民詩について語られた。從つて私達はその當時のノートへ羅須地人協會と書かず、農民藝術學校と書いて自稱してゐたものである。また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。…(略)…
 私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まないと云う事だつた。
 セロは一時花陽館と云ふ映畫館に身賣りした。私達は無料券を貰つて映畫を觀に行つたものである。今にして思えばほんたうにすまない譯である。
               <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p~>
 この伊藤の語るところの「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」の「その頃の冬」とは何年の何月頃のことだろうか。まずは、伊藤が語っているこのような「樂しい集まり」が行われたのは少なくとも昭和2年の4月頃以降ではなかろう。その頃以降の賢治は、農民等に対しては肥料設計などの稲作指導しかほぼ行っていなかったはずだからである。とすれば、それ以前の冬にこのような事柄が行われたであろうし、『新校本年譜』等によれば、大正15年12月頃~昭和2年1月頃の間の賢治の動向は、
◇大正15年
11月29日 羅須地人協会としての最初の集会
12月 1日 羅須地人協会定期集会。持ち寄り競売を行う。
12月 2日 上京
12月 3日 着京、神田錦町上州屋に下宿
      エスペラント、タイプライター、オルガン習得
      図書館通い、築地小劇場や歌舞技座の観劇
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席
12月15日 政次郎に200円の送金を依頼
12月29日 帰花
◇昭和2年
1月 5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪
1月 7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
1月10日 羅須地人協会講義 農業ニ必須ナル化学ノ基礎
1月20日    〃     土壌学要綱
1月30日    〃     植物生理学要綱
2月1日 『岩手日報』の報道を境にして活動から手を引いていった。
ということだから、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」というところの〝冬〟とは大正15年12月頃~昭和2年2月頃の間となろう。
 しかもこの場合、それはもっと限定され、
 伊藤が、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」という期間は昭和2年の1月のほぼ1ヶ月間のことである。
となってしまうであろう。なぜならば、その冬の大正15年12月中の賢治はほぼ滞京していたし、明けて昭和2年の2月1日は〝悲しい日がきてゐた〟<*1>ということでもはや2月1日以降は、楽しい集まりになり得なかったと判断できるからである。
 そこで逆に、隣の郡内の紫波一帯は「凶歉」であることが知れ渡っていた昭和2年1月頃、賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集まりの日」を持ってはいたが、彼等がこの「凶歉」の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの義捐活動を行っていたりした昭和2年1月であったとはどうも言い難いようだ。少なくとも伊藤克己はそのようなことに関しては一言も触れていないからである。また、伊藤のみならず伊藤以外の羅須地人協会員等の、この1月の賢治がこの「凶歉」に対してそのような救援活動等をしたという証言を私は全く見つけられなかった(どうやら、羅須地人協会は「社会性」が乏しかったようだ)。

 よって、大正15年末に帰花した賢治は紫波郡内の凶饉の惨状等を早速目の当たりにしたであろうが、それに対してどう感じ、どのような救援活動をしたのかが明らかになっていないから、この凶饉に関して賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たと断定は出来ない。まして、松田甚次郞のように「赤石村長ト面会訪問」したり、「国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ分配、二戸訪問慰問したりするようなことがあったとは言えない。

 どうやら、「ヒデリノトキニナミダヲナガ」さなかった賢治がいた、ということになりそうだ。

<*1:註> 伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協會時代―」において、
 私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まないと云う事だつた。
 セロは一時花陽館と云ふ映畫館に身賣りした。私達は無料券を貰つて映畫を觀に行つたものである。今にして思えばほんたうにすまない譯である。
              <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p~>

 続きへ
前へ 
 “賢治渉猟”の目次へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

【新刊案内】『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))

 当地(お住まいの地)の書店に申し込んで頂ければ、全国のどの書店でも取り寄せてくれますので、550円で購入できます。
 アマゾン等でも取り扱われております。

【旧刊案内】『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))
 
 岩手県内の書店やアマゾン等でも取り扱われております

【旧刊案内】『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)

 岩手県内の書店やアマゾン等でネット販売がなされおります。
 あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北上市展勝地(3/25、アズマ... | トップ | 北上市展勝地(3/25、フクジ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治渉猟」カテゴリの最新記事