〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)、吉田矩彦氏所蔵〉
さて、『追悼 義農松田甚次郎先生』の中の目次の一つ「弔詞」には、宮沢清六の次に照井又左衛門(『南城新興共働村塾』代表)の弔詞が載っていて、その中身は以下のとおり。
弔 詞
謹んで松田甚次郎先生の御霊前に申上げます。先生は吾が花巻町の農聖宮澤賢治の御子弟の関係から特に吾が花巻町南城共働村塾の開設に御援助下されました。昭和十四年三月開設以来如何なる御多忙なる年をも春秋二回は必ず御出で下さいまして或時は吾々と共に寒風肌さす冬の日禊を行い、或時は夏の炎天下に耕作を共にし、又或時は最も進歩せる農業技術の習得に農民文化の指導に只管農民魂の向上に重点を置き指導した下さいました。結果民にも漸く新興の氣風があらはれ作物の上にも脈々たる血潮が漲り始めたので御座います。
一例を申上げますならば四十幾町かの開田計画がなり、その半分の二十町歩が見事に開田がなり最早見事に出穂し始めて居ります。又一方蔬菜数十車の中央市場に出荷を見るなど着々と理想の建設に進みつゝありまして、之が先生の批判並びに指導を得べく来月㐧十回塾開塾に準備中のところ一昨日御逝去の電報を頂き暫しぼうぜんとしたのであります。今は先生は亡く、指導者を失つた吾々の塾も進路を失つた舟の樣に全く絶望におちいるばかりでございます。しかし嘗て御来花の節の先生が熱血ほとばしるあの感激の一言一句は未だ耳新であり何で□々の魂をゆすぶり起こさずにおきませう。否吾々のみでなく偉大なる先生の教が全日本の農民の奮起を促さずにおきませうか。先生、先生が常に教へて下さいました皇國農民の行くべき道に向つて使命を全うせんことを誓ふものであります。茲に花巻賢治の會及び南城村塾を代表しまして謹んで弔辞を申上げます。
昭和十八年八月六日
花巻賢治の會、南城新興共働村塾 照井 又左エ門
〈『追悼 義農松田甚次郎先生』(吉田六太郎編)14p~〉謹んで松田甚次郎先生の御霊前に申上げます。先生は吾が花巻町の農聖宮澤賢治の御子弟の関係から特に吾が花巻町南城共働村塾の開設に御援助下されました。昭和十四年三月開設以来如何なる御多忙なる年をも春秋二回は必ず御出で下さいまして或時は吾々と共に寒風肌さす冬の日禊を行い、或時は夏の炎天下に耕作を共にし、又或時は最も進歩せる農業技術の習得に農民文化の指導に只管農民魂の向上に重点を置き指導した下さいました。結果民にも漸く新興の氣風があらはれ作物の上にも脈々たる血潮が漲り始めたので御座います。
一例を申上げますならば四十幾町かの開田計画がなり、その半分の二十町歩が見事に開田がなり最早見事に出穂し始めて居ります。又一方蔬菜数十車の中央市場に出荷を見るなど着々と理想の建設に進みつゝありまして、之が先生の批判並びに指導を得べく来月㐧十回塾開塾に準備中のところ一昨日御逝去の電報を頂き暫しぼうぜんとしたのであります。今は先生は亡く、指導者を失つた吾々の塾も進路を失つた舟の樣に全く絶望におちいるばかりでございます。しかし嘗て御来花の節の先生が熱血ほとばしるあの感激の一言一句は未だ耳新であり何で□々の魂をゆすぶり起こさずにおきませう。否吾々のみでなく偉大なる先生の教が全日本の農民の奮起を促さずにおきませうか。先生、先生が常に教へて下さいました皇國農民の行くべき道に向つて使命を全うせんことを誓ふものであります。茲に花巻賢治の會及び南城村塾を代表しまして謹んで弔辞を申上げます。
昭和十八年八月六日
花巻賢治の會、南城新興共働村塾 照井 又左エ門
そこで思い出したのは、昭和14年3月に行われた南城振興村塾である。このような塾が、その後毎年春秋の二回開塾され、しかもそこに松田甚次郎は必ず指導に来ていたということになる。しかもこの照井の弔詞に従えば、その成果も着実に上がっていたということになる。となれば、照井又左エ門を始めとする南城新興共働村塾参加者等の松田甚次郎に対する感謝の念と敬慕の想いはとても強かったであろう。
そういえば、昭和18年に、花巻の宗青寺でも松田甚次郎の追悼式
〈『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)95p〉
がわざわざ行われたということだが、これも宜なるかなと知らされる。
要するに、松田甚次郎の稲作指導等に対して、当時の花巻の評価はすこぶる高かった、と言えるだろう。
なお、ここで気付いたことの一つに、照井の「農聖宮澤賢治」という表現がある。
というのは、この「農聖」と賢治に関しては、佐々木多喜雄氏が『宮沢賢治小私考-賢治「農聖伝説」考』〈北農 第74巻第4号(北農会2007.10)所収〉において詳しく具体的に論じているが、以前〝佐々木多喜雄氏の論考から学ぶ(#2)〟で紹介したように、同論考の最後の「3.おわりに」において、
本文の最初に、野の教師としての賢治の生き方に共鳴するところがあってファンとなったと書いた。そうしてファンの一人、稲の育種家の一人として、賢治が稲品種改良に特別な強い関心と期待を持っていなかったことについて、賢治においておや、と私の思いを記した。しかし、この度の一連の考察の結果からは、私の買いかぶりによるものとの思いに至っているが、ことここに至ったのは何の不思議なことではないのである。
と同氏は述懐していた。そして続けて、 こと農民や農業技術に関して言えば、「農聖」と呼ばれるような特別なことは無かったと考えざるを得ない。
と断定していた。どういうことかというと、「農聖宮澤賢治」の「農聖」という冠はあくまでも儀礼的なものだあったのかもしれないということである。実際私もここまで賢治の稲作指導を実証的に検証し続けてきたが、その実態は、佐々木氏のこの「断定」を否定するものではなかった。
なお、地元花巻の照井のこの弔詞からは、遅くとも「昭和十八年八月六日」にはここ花巻においても、賢治のことを「農聖」と称える人があったということが確認できた、ということに留意しておきたい。
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《発売予告》 来たる9月21日に、
『宮沢賢治と高瀬露 ―露は〈聖女〉だった―』(『露草協会』編、ツーワンライフ社、定価(本体価格1,000円+税))
を出版予定。構成は、
Ⅰ 賢治をめぐる女性たち―高瀬露について― 森 義真
Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露― 上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
の三部作から成る。Ⅱ「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露― 上田 哲
Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露― 鈴木 守
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