みちのくの山野草

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困っている「百姓」を支援しなかった賢治

2018-10-21 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
 さて、前回までいくつかの検証を行ってみたのだが、結局、先に定立した仮説「賢治は百姓<*1>になるつもりは元々なかった」の反例は見つからなかった。そこで私は、そろそろこの仮説「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」は、今後反例が見つからない限りという、限定付きの「真実」であるということになりそうだ、ということを確信しつつある、と前回の最後に述べた。
 実は、私はこれから述べることを知っていたから、この仮説を立てたとも言えるし、おそらくその反例も見つからないだろうということを始めから直感していたのだった。具体的には、大正15年の隣の郡、紫波郡の大旱害の際に賢治が一切の支援活動を行っていなかったことを、である(なお、とても不思議なことだが、賢治研究家の誰一人としてこのことについて論じている人を私は見つけられずにいる)。

 さて、生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめたのは誰か。それは、今では殆ど忘れ去られてしまっている松田甚次郎だ。かつてならば、「賢治精神」を実践したと言われた人口に膾炙していた彼は、その実践報告書を『𡈽に叫ぶ』と題して昭和13年に出版し、それが一躍大ベストセラーとなった。その巻頭「恩師宮澤賢治先生」を彼は次のように書き始めている。
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
              <『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p>
 そこで私は思った、その旱魃による被害は相当深刻なものであったであろうと。早速、大正15年の旱害に関する新聞報道を実際に調べてみたならば、当時の『岩手日報』には早い時点から旱魃に関する報道が目立っていた。
 特に12月に入ると、赤石村を始めとする紫波郡の旱魃による惨状がますます明らかになっていったので、それに応じて、
◇大正15年12月7日付『岩手日報』
    村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豐かな贈物
という見出しの、仙台市の女生徒からの援助の記事や、
◇同年12月15日付『岩手日報』
 赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附
本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる數日前東京浅草区森下町濟美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の學校で今度修學旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも爲になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど眞心をこめた手紙だった。
というような記事が連日のように載っていて、陸続と救援の手が地元からはもちろんのこと、遠く東京の小学生からのものを含めて、他県等からも「未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方」等へ差し伸べられていたということが分かる。
 ちなみに、同年12月22日付『岩手日報』には、
 米の御飯をくはぬ赤石の小學生
 大根めしをとる哀れな人たち
という見出しの記事が載っていたから、おそらく甚次郎はこの日の新聞報道を見たりして赤石村を慰問したに違いない。
 そして、この旱害の惨状等は年が明けて昭和2年になってからも連日のように報道されていて、例えば同年1月9日付『岩手日報』には、トップ一面をほぼ使っての大旱害報道があり、その惨状が如実に伝わるものであった。しかもそれは、紫波郡の赤石村だけにとどまらず、同郡の不動村、志和村も同様であったことが分かるものだった。

 ではこの時、稗貫郡の場合はどうだったのだろうか。まず
菊池信一の追想「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」には、
 旱魃に惱まされつゞけた田植もやつと終つた六月の末頃と記憶する。先生の宅を訪ねるのを何よりの樂しみに待つ
てゐた日が酬ひられた。
           <『宮澤賢治硏究』(草野心平編、十字屋書店、昭14)417p>
と述べられていることから、菊池の家がある稗貫郡好地村でも旱魃がかなり酷かったということが導かれるので、あの賢治のことだ、この年の旱魃は稗貫郡内でも早い時点から起こっていることを当然把握していたはずだ。
 その他にも、例えば大正15年10月27日付『岩手日報』は、
(花巻)稗和両郡下本年度のかん害反別は可成り広範囲にわたる模樣
とか、花巻の米商連の昨今の検査によれば、
 粒がそろはぬのに以て來て乾そうがあまりよくない、之は収穫期に雨が多かつたのと諸所に稻熱病が發生したためで二等米が大部分である
ということを報じていたから、賢治は稗貫郡下の旱害等による稲作農家の被害の深刻さもよく知っていたはずだ。

一方、9月末時点で既に、大正15年の県米の収穫高は「最凶年の大正十(ママ)二年に近い収穫らしい」と、そして11月上旬になると前年に比しそれは「二割二分二十五萬石の夥しい減少となり」そうだという予想がそれぞれ『岩手日報』で報じられていた。

 よって、巷間伝えられているような賢治であったならばこの時には上京などはせずに故郷に居て、地元稗貫のみならず、未曾有の旱害罹災で多くの農家が苦悶している隣の紫波郡内の農民救済のためなどに、それこそ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていたであろうことが充分に考えられる。
 しかしながら実際はそうではなくて、12月中はほぼまるまる賢治は滞京していたのだから、上京以前も賢治はあまり「ヒデリ」のことに関心は示していなかったようだが、上京中もそのことをあまり気に掛けていなかったと、残念ながら客観的には判断せねばならないようだ。

 では、大正15年の岩手県産米の実際の作柄はどうだったのだろうか。そこで、『岩手県災異年表』(昭和13年)から、不作と凶作年の場合の稗貫郡及びその周辺郡の、当該年の前後五ヶ年の米の反当収量に対する偏差量を拾って表にしてみると、下掲のような図表となった。

 よって同表より、赤石村の属する紫波郡の大正15年の旱害は相当深刻なものだったということが改めて分かるし、稗貫郡でも確かに米の出来が悪かったということもまた同様に分かる。

 そこで、下根子桜に移り住んだ最初の年のこの大旱害に際して賢治はどのように対応し、どんな救援活動をしたのだろうかと思って、「旧校本年譜」や『新校本年譜』等を始めとして他の賢治関連資料も渉猟してみたのだが、そのことを示すものを私は何一つ見つけられなかった。逆に見つかったのは、伊藤克己の次のような証言だった。
  その頃の冬は樂しい集 りの日が多かつた。近村 の篤農家や農學校を卒 業して實際家で農業を やつてゐる眞面目な人々 などが、木炭を擔いでき たり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。…(筆者略)…
 そしてその前に私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村淸さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集りも不定期になつた。それは或日の岩手日報の三面の中段に寫眞入りで宮澤賢治が地方の靑年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時は思想問題はやかましかつたのである。
           <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p~>
 さて、伊藤が語るところの「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」とは何年の何時頃のことだろうか。まずは、「悲しい日がきてゐた」というその日は周知のように昭和2年2月1日であるから、「樂しい集り」が行われたのは昭和2年の2月以降ではなかろう。しかもそれ以降の賢治は、農民に対しては肥料設計等の稲作指導しかほぼ行っていなかった言われているからなおさらにである。
 となれば、「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」というところの「」とはまずは大正15年12月頃~昭和2年1月末の間となろう。ところが、大正15年の12月中の賢治はほぼ滞京していたわけだから、伊藤が「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」という期間は、昭和2年1月の約1か月間のこととなってしまう。
 したがって、トップ一面を使って隣の紫波郡一帯の大旱害の惨状が大々的に報道されていたような昭和2年1月頃に、賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集りの日」を持ってはいたが、彼等がこの大旱害の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの救援活動を行っていたりしたとはどうも言い難い。少なくとも伊藤はそのようなことに関しては一言も触れていないからである。
 また、賢治がそのために東奔西走していたとすれば、それは農聖とか老農とさえも云われている賢治にまさにふさわしい献身だから、当然そのような献身は多くの人々が褒め称え語り継いでいたはずだがいくら調べてみても、残念ながらそのような証言等を誰一人として残していない。一方で、「下根子桜」に移り住んでからの一年間の間に、この時の大旱害について詠んだ一篇の詩も見つからない。せいぜい、昭和2年4月1日付〔一昨年四月来たときは〕の中に、「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」が見つかるだけだし、しかもこの旱魃は「一昨年」とあり、この時のものとは言えそうにない。

 つまるところ、「羅須地人協会時代」の出来事であった大正15年のヒデリ、とりわけ隣の紫波郡内の赤石村・不動村・志和村等の未曾有の大旱害罹災に対して、賢治が救援活動等をしたということを示す証言等は一切見つからないということであり、どうやら、「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治がそこにいたということになってしまった。この大旱害に対して賢治はほぼ無関心・無頓着であったということになってしまう。
 おのずから、「本統の百姓になる」と言っていたという賢治ではあるのだが、当時の人たちが普段口にするような「百姓」に賢治はなるつもりがなかったばかりでなく、当時の賢治は現に困っている「百姓」の中に入ってかなかった、という事実があったことを私は知ってしまったのだった。この時の大旱害に際しては地元の大人は元より、青年や少年もからの支援も陸続と続いていただけではなく、隣宮城県の栃木からの、あるいは在京学生からの支援、はては東京の小學生からの支援等が連日のように新聞報道されていたのにも拘わらずである。

 極めて残念なことになってしまったので、もう一度似たようなことを繰り返す。従前私が持っていた、「弱い者が困っている時にはいつでも助けてやる賢治」像とは真逆の賢治がそこにいたという事を私は知ってしまった。現にとても困っている「百姓」を助けなかった賢治がいた、ということになる。「百姓」の中に入って行かなかった「羅須地人協会時代」の賢治がいたのだ。であれば、「賢治は百姓になるつもりは元々なかった」ということは当然の帰結だと、私は直感したのだった。そこで、おのずからあの仮説の反例も見つからないだろうということをその時既に直感していたのだった。

 ただし、だからといって、私は賢治を全否定するつもりは毛頭ない。それは、賢治は幾多の素晴らしい作品を私たちに現に遺しているからだ。そこで誤解を恐れずに言えば、この、いわば「鈍感力」が彼にあったればこそが、幾多の素晴らしい作品を彼は残せたのだと私は確信しつつある。そしてこのような天才は今まで世の中に少なからずいたのだから、私からすれば何等不思議なことではない。逆に言えば、天才だからといって完全無欠なわけではなく、天才だって駄目なところはあるのだ、という当たり前の話だ。
 そしてまた、賢治は後々これらのことを悔いて、例えば伊藤忠一には、「殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでしたと詫び、あるいは、『雨ニモマケズ手帳』には、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ……サウイフモノニワタシハナリタイ」と書き記したのだと私は推察している。そして、もしこの推察が正鵠を射ているのであれば、そこにもまた賢治の魅力を私は発見するし、彼に親近感を増す。

<*1:投稿者註> ここでいう「百姓」とは、賢治が下根子桜に住んでいた当時の人たちが日常的に使っていた意味での「百姓」のことであり、端的に言えば、当時農家の6割前後を占めていた「自小作+小作」農家の農民のことである。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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