みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

凡人から見た賢治(中ぶらりんの教師など)

2015-09-17 08:30:00 | 賢治渉猟
 国民の理解を得られているとは到底言えない現状に鑑みて、無理矢理な今国会での安保法案成立には少なくとも反対します。

 さて、約一年前の杉山芳松宛書簡についてだが、それは次のようなものである。
◇ 205 大正14年4月13日 杉山芳松あて
お手紙寔にうれしく拝誦いたしました。いつもご無沙汰ばかりでほんたうに済みません。樺太は今年は未曽有の風雪であるなど新聞で見たりしていろいろ心配して居りました。こゝらも今年は春が遅く今日あたりやっと野原の雪が消えたばかりです。内地はいま非常な不景気です。今年の卒業生はもちろん古い人たちや大学あたりの人たちまでずゐぶん困る人も多いやうです。仕事もずゐぶん辛いでせうが、どうかお身体を大切に若いうちにしっかりした一生の基礎をつくって下さい。わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです。
              <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>
 この文面に従うかぎりは、この中で今最も気になっていることは、
 わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります。
と、花巻農学校を一年前の大正13年3月に卒業した教え子に伝えていることである。実際に農学校を辞めた少なくとも一年も前に既に「多分は来春はやめて」と吐露している点ももちろんそうだが、それ以上に、教え子に対して「中ぶらりんの教師など生温いこと」と自分が今している仕事を蔑んでいることが特にである。ちなみに、「教師など」の「など」からは教師は自分にとっては役不足であると教師をあなどり、「生温い」からは賢治が教師を見下していることがそれぞれ読み取れる。よってこの書簡は、賢治が「自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度」を当時取っていたといういうことを裏付けていると、凡人の私には見えるのである(なお、私がここで凡人と言っているのは何も自分を卑下しているわけではなく、普通の感覚、庶民感覚で見ればという意味を持たせているだけである。そして、天才は凡人とはその論理や倫理や規範が違っていて当然だと思っているからである)。そして私は自分の教師時代を振り返り、賢治が教師という職業をそのように認識していたのかととても残念でならないし、それを自分の心の中に秘めながら持ち続けるというのであればまだしもだが、そのことを、他でもない卒業したばかりの教え子に直截的に伝えていたということが無念でならない。

 このことに関しては萬田務氏も、
 もし、自らの教師生活が「中ぶらりん」で「生温い」というのであれば、自分の生活を顧みての自己批判であるが故に、真摯なものといえるが、この書簡から受け取れるのは、そうではない。明らかに教師という職業の否定である。もちろんこれは、教師という職業に対する冒涜でもあるが、賢治自身はそんなことを意識していなかったに違いない。しかし。無意識なるが故に、また教え子への手紙であるが故に、本音が出たとも考えられないことはない。
                         <『孤高の詩人 宮沢賢治』(萬田務著、新典社)211p~より>
と論じており、「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから」という一文に遭遇したならば、教師を生業としている人の場合は特に、そうか自分は「中ぶらりん」で「生温い」のかとわが身を託つかもしれない。もちろんその理由は、いくら賢治のだからとはいえ、「教師という職業の否定」と「冒涜」の意味合いをもつこの一文はそう簡単には肯うわけにはいかないからである。そして一方の賢治は、萬田氏の推測どおり「賢治自身はそんなことを意識していなかったに違いない」、天才なるが故に。

 とまれこれで、この当時の賢治はまさしく「自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度」であったということがこの書簡によって裏付けされたといえるだろう。そしてもちろん賢治のことだから、後々このことを振り返って、「但し終りのころわづかばかりの自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度になってしまった」と悔いていたのだと私は素直に理解できたので安堵した。天才賢治も凡人と同じように、後悔先に立たずと嘆息していたのだろうと私は同情しながら、賢治のことをこのように忖度してみた。

 そして改めて、昭和5年4月4日付高橋(澤里)武治宛書簡(260)で賢治がこのように悔いていたことは、嘘偽りのないところであり、私はそれに素直に耳を傾けねばならないのだということを覚悟した。そしてまた、ほぼ同じ時期の昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡(258)でも、賢治は同様な後悔を伝えていることとを併せて判断すれば、私達は賢治が吐露していることをもっともっと素直に受け止めていいのではなかろうかと、凡人の私は天才賢治に対してそう思った。 

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