みちのくの山野草

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チェロの入手について(後編)

2019-03-24 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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〈承前〉
 やはり矛盾を抱えている
 ここで少し視点を変え、父政次郎に宛てた書簡によって、この「知られたくなかった」ことに関して少し考えてみたい。
 「現定説」では、霙の降る大正15年12月2日、澤里武治がチェロを背負って賢治と一緒に花巻駅へ行ったということになるが、もしそうであるとするならば、賢治がその際に父に会わずに直接花巻駅に行ったということはあり得ないのではなかろうかという疑問が、父宛書簡の文面から生じる。
 それは、大正15年の書簡「220」及び「222」の中に、
220〔十二月四日〕宮澤政次郎あて
 ……小林様へも夕刻参り香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました。
<『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)304pより>
222〔十二月十五日〕宮澤政次郎あて
 ……今年だけはどうか最初の予定通りお許しねがひます。
 ……今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました
<『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)307pより>
とそれぞれ書いているからである。
 これらの内容からは、賢治はこの時の上京については父政次郎と上京前にかなりのことを相談し合っていたことが容易に導き出せる。前者の「香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました」とは政次郎から事前に託されていた小林六太郎との商売上の交渉のことであろうし、後者からは賢治の滞京中の予定や予算のことを上京前に政次郎に相談していたことが導かれるからである。
 となると、これらのことは大正15年12月2日の「現定説」とやはり矛盾することになる。なぜならば、澤里武治の証言に基づけば賢治は父政次郎に上京を知られたくなかったとみられる行動をしている一方で、賢治自身のこれらの書簡からはこの上京に関しては事前にかなり父政次郎に相談していたことが窺える訳で、父にその上京を知られて困ることは賢治には何もないはずだからである。
 ではこのような矛盾がなぜ起こっているのか。それはもちろんこの場合も、
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが…(中略)…その十一月のびしょびし霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
と澤里は証言しているのに、その上京の定説「○現」は、
 大正十五年一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。…………○現
となっているからである。
 そもそも定説「○現」は澤里武治の証言(『宮澤賢治物語(49)』や「沢里武治氏聞書」に載っている)に基づかざるを得ないのに、その澤里の証言自体が定説「○現」の持つ矛盾点をいみじくも指摘している<*1>ということになる。自家撞着してますよ、と澤里の証言が忠告していることになる。 
 そこで私は主張したい。「沢里武治氏聞書」や『宮澤賢治物語(49)』における澤里武治の証言に基づくならば、
・大正15年12月2日の「現定説」は矛盾を抱えている。なおかつその矛盾は解消できない。
・仮説「♣」ならば全く矛盾を生じない。また他のことも合理的に説明できる。
と。そしてもちろん、仮説「♣」とは、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
のことである。

 バターのお土産
 最後に、前に触れた「バターのお土産」、賢治が大津三郎宅を訪れた際にバターのお土産を持って行ったということについてここでは述べたい。
 それは、『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』の中で次のように語られている。
 大津三郎の次女川原日出(元近衛管弦楽団ヴァイオリニスト)は、母つや子から聞いたことを話してくれた。
「母は賢治が来たといわれている一九二六、七年ころは、生まれたばかりの私や子供のことでたいへん忙しかったから、父の来客のことは覚えていないんですね。賢治については『新聞紙にくるんだバターをお土産に貰ったことしか覚えていない』と言っていたのね」
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』(中丸美繪著、新潮文庫)116p~より>
 さて、もしこの話が事実であったとするならば、賢治のこの時の大津三郎宅訪問は寒い時期のことであったということになろう。これを大津三郎の記憶どおり「大正十五年の秋」だったとすると、バターが可塑化するのは15℃前後のようだから、バターを手土産とするには時期的に秋では難しそうである。そういう意味では「秋」ではなくて「冬」の方がふさわしい。実際賢治が大津三郎を訪ねたのは「秋」ではなくて大正15年12月だったと考えれば、手土産としてバターを大津家に持参したということは時期的に十分あり得ることであろう。
 ところで、その場合賢治は一体どこでそのバターを手に入れたのだろうか。もちろん花巻から持参するということはあり得なかったであろう。このときの上京は12月初旬だったのだから暖房の効いた汽車の中で持参したバターは溶けてしまったであろうからである。したがって、そのバターは東京で買ったものと推測できる。それもわざわざ賢治がお土産として持参するのであれば、普通のものではなくて岩手に関係するものが有力である。
 そこで当時東京で「小岩井バター」が市販されていたかどうかを知りたいものだと思って、「小岩井農場」の「小岩井農場資料館」に電話してこのことをお訊ねしてみた。すると小岩井農場では明治時代から既に「明治屋」を特約店として東京でもバター販売をしていたということを即答で教えてくれた(さすが小岩井農場資料館!、と感心)。
 それを受けて、「明治屋」にも同じ件で問い合わせみたたところわざわざ調べてくださり、明治35年より「小岩井バター」を一手に販売していたということを教えてくれた(とても対応が丁寧で親切であったことに感激)。よって、賢治は東京の明治屋が一手販売していた「小岩井バター」を購って、新聞紙に包んだそれを手土産に大津家を訪ねたということが十分にあり得る。

 バター持参は昭和2年上京時か
 それから、よくよく考えてみれば手土産に「小岩井バター」を持って行ったということであれば、同時にチェロも持って行かねばならぬので物理的にそれはなかなか難しいことでもある。すると、最初の大津三郎宅訪問の際はチェロを持っていかなかったということも考えられるし、はたまたバターのみを持参して大津家を訪ねたのは別な機会かもしれないとも考えられる。
 そしてその別な機会といえば、それこそ「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する」と言って滞京したその3ヶ月の期間中であったとも考えられる。しかも、前年の12月に無理を言って頼んだ「三日間のチェロの特訓」だった訳だから、なおさらそのお礼に賢治が大津の家を訪れるということは自然の成り行きである。
 だから、いみじくも例の註釈「*5」
 大津の夫人つや子の記憶では、次女誕生の後で昭和二年のことであったかもという。…(略)…これらのことから、チェロを習いに上京したことが、昭和二年にもう一度あったとも考えられるが、断定できない。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』(筑摩書房)123pより>
の中の「昭和二年にもう一度あったとも考えられる」にあるところの「昭和二年」に賢治はバターを持って一年前のお礼に伺ったということが十分にあり得るということである。そしてそれは、まさしく仮説「♣」にあるところの「3ヶ月弱滞京」中にである。
 ところで、賢治は当時菜食主義であったことは千葉恭の講演会(昭和29年12月21日)後の質疑応答からも知ることができる。千葉恭は次のような質問を受けて、
問 賢治の食生活についての考え方は。
答 賢治は菜食主義ではあつたが、バターや大豆などの脂肪蛋白は摂取していた。しかし魚や肉などは食べなかつた。
<「羅須地人協会時代の賢治(二)」(『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の會)12p)より>
と答えているからである。
 そして、その菜食主義時代にあっても賢治はバターを食していたという興味深い証言である。このことからも、賢治が「小岩井バター」をお土産にしたことは十分あり得たであろう。
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 さて、以上で関連する証言等については全て網羅したつもりだ。したがって、これで証言等による仮説「♣」の検証は完了である。
 その結果、ここまでに限って言えば、仮説「♣」の反例となるような証言等は一切ないことがわかった。同時に、この仮説を裏付けてくれたり、傍証してくれたりしている幾つかの証言等があることもわかった。よって、仮説「♣」は見事に検証に耐えた。
 そこで、私は先に〝「賢治昭和2年11月から約3ヶ月滞京」の凡例〟で、
    なお検証に耐えたならば、記号「♣」を「♧」に替える。
と宣言していたとおり、ここからは記号「♣」を「♧」に替え、
 次の仮説、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。…………♧
は検証に耐えたので、
    仮説「♧」は今後反例が提示されない限りという限定付きの「真実」である。
と言えることになった。
 言い換えれば、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
は、今後反例が見つからなければ、やがてこの仮説「♧」は定説になるであろう、ということであり、有り体に言えば、この「♧」は歴史的事実となるだろうということでもある。

<*1:註> このことについては、後ほど拙著『本統の賢治と本当の露』
  2.「賢治神話」検証七点
 ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について
を基にして、論じたい。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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