みちのくの山野草

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チェロの入手について(中編)

2019-03-23 14:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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〈承前〉
 大正15年12月30日帰花
 さてこれで、尾崎喜八の証言等を基にして、
 大正15年12月末念願叶って最高級のチェロを手に入れた賢治は、急遽大津三郎から三日間のチェロ特訓を受け、彼から貰った『ウエルナーの教則本』を携えて下根子桜に戻った。
と結論していいのだと私は判断しているが、ここからはその後のことについて述べたみたい。
 まず、宮澤賢治の大正15年12月の上京の際の帰花の時期についてである。定説ではいつ帰花したということになっているのだろうか。残念ながら、「新校本年譜」にはその年月日は明記されていないから定説はないようだ。
 ならば、ここは政次郎宛書簡「222」の中にある「……廿九日までこちらに居るやうにおねがひいたします」及び同「224」の「……二十九日の晩にこちらを発って帰って参ります」のとおりであったとして、
    賢治は大正15年(正しくは昭和元年)12月29日に東京を発って花巻に戻った。
ということにしてもそれほど間違いはなかろう。
 そこで、「……二十九日の晩にこちらを発って」という予定通りの帰花であったとすれば、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料編』によれば、東北線下り一〇一・一〇七・一〇五・二〇一のいずれかを利用したことになる。具体的には、
  列車番号  上野   花巻
  一〇一   18:20   08:21
  一〇七   20:05   11:53  
  二〇一   22:30   10:51
  一〇五   23:25   14:31
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料編』(筑摩書房)228pより>
ということである。したがって、いずれにしても翌日すなわち12月30日には花巻に戻っていたであろう。

 「ぎいん、ぎいん」
 ところで、賢治の友人阿部孝が「大正の終わる頃」というタイトルの追想を『四次元 百五十号記念特集』に寄せていて、その中で、
 二、チェロを弾く賢治
いつの頃からか、賢治は、野中の一軒家のあばら屋にひとり籠つて、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
 チェロを弾くといえば、聞こえがいいが、実はチェロの弦を弓でこすつて、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いつぱいで、それだけでひとり悦に入つていたのである。
<『四次元 百五十号記念特集』(宮沢賢治研究会)24p~>
と賢治のチェロに関して語っている。
 大正15年末、帰花直前に賢治は鈴木バイオリン社製の最高級チェロ一式を手に入れて、下根子桜に持ち帰った賢治は友人阿部孝の前でそれを見せびらかし、弾いてみせたに違いない。そしてその様が阿部にすれば「ひとり悦に入つていた」ように見えたのであろう。
 なお、賢治の帰花が「大正15年(正しくは昭和元年)12月末」で、阿部がチェロの「ぎいん、ぎいん」を聞いたのが「大正の終わる頃」だということであれば問題が生ずる。大正の終わったのは大正15年12月25日だから、同月26日以降は昭和元年となり、これだと阿部孝のタイトルは厳密には「昭和の始まりの頃」でなければならないからである。とはいえ、許容範囲と考えていだろう。なお、後述するような理由から阿部が「ぎいん、ぎいん」を聞いたのは12月内のことであろうと推測できる。
 それから、この追想で阿部はこのチェロを、
    町の古道具屋で買いこんできた中古のチェロ
としているが、それは賢治のついたおそらく嘘であり、阿部から、
 レコード集めに血道を上げて揚句のはてに、とうとう自分自身で、楽器の音を出してみなければ満足ができなくなつた彼が……
<『四次元 百五十号記念特集』(宮沢賢治研究会)25p~>
と見くびられているような賢治とすれば、そう嘯くしかなかったのであろう。

 政次郎と賢治のチェロ
 ところで、次のような宮澤清六の証言があったことを横田庄一郎氏が紹介している。
 羅須地人協会のきびしくなっていく生活が続いて、賢治は一九二八(昭三)年夏に病に倒れ、実家に戻った。このときになって初めて、父親政次郎は賢治がチェロを持っていることを知った。佐藤泰平・立教女学院大学教授が賢治の弟清六さんから聞いた話である。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽の友社)85pより>
 ということは、昭和3年8月上旬に賢治が病気になって実家に戻るまでは、父政次郎は賢治がチェロを持っていたことを少なくとも知らなかったということを意味している証言となろう(もちろん、清六は賢治が下根子桜時代にチェロを買ったことは既に知っていたであろうし、その現物も見ていたであろうが)。これは逆に考えれば、あの大金「二百円」の無心はやはり最高級のチェロ一式購入のためだったのであり、そのことを父に覚られたくなかったから賢治はチェロを持っていることをそれまで教えていなかったのであろうとも推測できる。
 これと似たようなことを板谷栄城氏が『素顔の宮澤賢治』において述べていて、
 筆者が沢里武治から直接聴いたところでは、この時黒いチェロのケースに紐をかけて肩に背負い、羅須地人協会から駅に直行したそうですが…(中略)…。羅須地人協会から駅に直行したということは、チェロのことを父親に知られたくなかったということを示唆します。
<『素顔の宮澤賢治』(板谷栄城著、平凡社)74pより>
と指摘している。
 たしかにこの前半の内容は、横田庄一郎氏がやはり澤里本人から得た証言に基づいて述べいるのであろう、
 ケースは、チェロの形に合わせた黒い木の箱だった。教え子沢里武治は、この箱にヒモを付けて駅まで運んでいった。ヒモは縄だったという。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)58pより>
という記述とも符合する。
 ちなみに、下根子桜の宮澤家別宅から花巻駅まで行くのであれば、その途中に賢治の実家が地理的にも位置している訳だから、普通の上京であれば途中で豊沢町の実家に最低限顔を出すぐらいはするであろう。ところがその際賢治がそうしなかったということは、板谷氏の指摘どおりチェロを持って上京することを知られたくなかったという可能性が高そうであるし、あるいはそれ以上に上京そのものを知られたくなかったという可能性すらある。

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               電話 0198-24-9813

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