みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「校本」に溢れているあやかし

2019-03-07 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京
《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
***************************************************************************************************

 驚きの註釈「*67」
 そんな柳原の証言「〇柳」を菊池忠二氏から教わった矢先に知った「新校本年譜」の註釈「*65」であったので私は大変驚いたのだが、同頁の註釈「*67」を見て、またまた驚いてしまった。その註釈には次のように、
*67 セロを持ち上京する賢治を見送った高橋(のち沢里)の記憶の他に、柳原昌悦も同様の記憶をもっており、昭和二年にもう一度セロを習いに上京したことがあったかとも考えられるが、断定できない。
             <「新校本年譜」(筑摩書房)327pより>
と記述されていたからである。
 先の澤里の証言の方は理由も明らかにせずに日にちは変えて別の日と断定している(つまり、澤里は昭和2年11月霙の降る日と言っているのに、「校本年譜」はそれを大正15年12月2日と断定している)のに、柳原のこのような証言については「断定できない」という。しかも、「同様な記憶」とはどんなものかと言うことも明示していない(もしそれが、「セロを持ち上京する賢治を見送った」であるというのであれば、私の知る限りでは柳原はそのような証言などしてはいない)ので、これでは断定の仕方に公平さが欠けているのではなかろうか。またそもそもこのような思わせぶりなことを、「校本全集」が活字にするということもはたして如何なものか。
 新校本全集十五巻校異篇の註釈
 ただし明示はしていないものの、この「*67」の末尾には次の一言、
    本全集一五巻校異篇一二三頁*5参照
が続いていた。そこで、もしかすると柳原の「記憶」の出典等がそこに明記されているのではなかろうかと一縷の望みを託しつつ、指定の頁を見てみた。それは、もともとは宮澤政次郎宛書簡「221」の中の「新交響楽協会」ついての註釈であり、件の「三日間のチェロの特訓」に関連するものであった。
*5 新交響楽協会……新交響楽団。大正十四年三月に山田耕筰・近衛秀麿らによって結成された日本交響楽協会は、十五年九月早くも分裂し、十月五日近衛は新交響楽団を結成。練習所は東京コンサーヴァトリー。大津散浪(三郎の筆名)「私の生徒 宮沢賢治~三日間セロを教えた話~」(「音楽之友」昭和二十七年一月号)によれば、賢治はこの上京時、同楽団のチェリスト大津三郎に頼んで江原郡調布村字嶺の大津宅に通い、三日間早朝二時間のチェロのレッスンを受けた。ただしこれは、大津の夫人つや子の記憶では、次女誕生の後で昭和二年のことであったかもという。さらに沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつのに対し、柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている。これらのことから、チェロを習いに上京したことが、昭和二年にもう一度あったとも考えられるが、断定できない。
             <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』(筑摩書房)123pより>
 ということで、実質的には先の「*67」の内容と似たり寄ったりでなおかつ出典も明らかにされていなかったので、私はちょっと肩すかしを食ってしまった感じがした。
 二人の教え子の「記憶」
 そのあげく、新たに私が驚いてしまったことが二つそこにはあった。そのまず第一は、
    沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつ
の部分にである。
 一体この「記憶」の出典は何なんだろうか。私はそのような証言や資料は聞いたことも見たこともない。私が知る限りでは、
 どう考えても昭和二年十一月頃のような気がするが、その十一月の霙の降る寒い日に、「澤里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ」と言い残して上京する賢治を澤里一人が見送った
というような内容の「記憶」しか澤里武治は持ち合わせていなかったはずだ。
 その第二は、註釈「*5」の次の部分、
    柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている。
にである。一体この柳原の場合の「記憶」の出典は何なんだろうか。澤里の場合と同様私は見たことも聞いたこともない。
 先にも触れたように、このことに関して私が知っている柳原の証言は、菊池忠二氏が直接柳原本人から訊いたという
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。………………○柳
という証言しか知らない。もちろんこの証言においては、見送る際に賢治はチェロを携えいたなどとは言っていないことにも注意せねばならない。その他にも、見送った際に賢治がチェロを携えていたなどという他の柳原の証言も私は知らない。
 願わくば、典拠を明らかにせず、しかも一般読者にはそれに対応するような典拠を探し出せない、先のような記述は避けていただきたかった。もし事情があってその時点では典拠を読者に明らかにできないというのであれば、その時点では活字にしないでいただきたかった。
 また、『旧校本全集』で「昭和二年にもう一度あったとも考えられるが」と問題提起をして、なおかつ「断定できない」と断り書きをしている以上、当然関係者はそのことを次回への大きな課題だと認識していなかった訳はなかろう。
 ちなみに、
  書簡篇『旧校本全集十三巻』の発行は昭和49年
  年譜篇『旧校本全集十四巻』の発行は昭和52年
  『新校本第十五巻書簡校異篇』の発行は平成7年
  『新校本第十六巻(下)年譜篇』の発行は平成13年
であり、
  柳原昌悦(明治42年~平成元年2月12日没)
  澤里武治(明治43年~平成2年8月14日没)
なので、時間的にはかなりの余裕があったはずだから、『旧校本全集』発行~『新校本全集』発行の間に調べようとすればかなりの程度のことを澤里や柳原本人からも聞き出せたと思う。
 ところが現実は、この『新校本全集第十五巻書簡校異篇』の註釈「*5」は、『旧校本全集第十三巻』の註釈と番号まで含めてまったく同じものであり、一言一句変わっていない。何も進展していなかったのである。何も進展がなかったということは、為すべきことが為されていないことの証左であるということにはならないだろうか。残念である。
 まあ、澤里からの聞き取りに関しては関登久也が既に行って「澤里武治氏聞書」という形で公にしているから措くとしても、一方の柳原の先の「記憶」については極めて重要な意味合いを持つ訳だから、柳原本人からしっかりと聞き取ってその真相を『新校本全集』では読者に明らかにしてほしかった。
 活字が真実とは限らない
 さて私という人間はあまりにも単純で、活字になっているものは動かすことのできない正真正銘の真実であるとつい思い込んでしまって、そのまま受け入れてしまいがちであった。
 しかし、著名な何人かの賢治関連の著作の中にさえもそうではないものがあることを知ったし、賢治の詩の中にも(詩だから当たり前のことではあるのだが)虚構があるということも知った。したがって、私は賢治にまつわる「真実」といえどもそれは検証されたものでなければ賢治の伝記に関しては資料とはならないということを学んだ。活字となっているからといってそれが真実とは限らない、と。
 そして一方では、その証言が「何を言ってるか」だけではなくてそれ以上に「誰が言ってるのか」という点にも心しなければならないということも学んだ。賢治に関することや賢治周辺の人物を知っている人の何人かから、賢治周辺の人々が語っていることをそのまま鵜呑みにすることは危険だぞとアドバイスされたからだ。遅まきながらやっと、
    「何を言ってるか」ではなくて「誰が言ってるか」
ということもその証言の信憑性を左右する鍵になるのだということが分かってきた。その人の人柄なども併せて判断せねばならぬのだと。
 澤里の人柄
 では、澤里武治の人柄はどうであったであろうか。澤里武治の長男裕氏からは、
 近しい人に対しては別として、父は一般的には公の場で賢治のことをあれこれ喋るようなことは控えていた。一方、家庭内では興が乗ると賢治の真似をし、身振り手振りよろしく賢治の声色を真似て詩を詠ったものだったが。
という人物であったということを私は教わった。澤里武治は賢治に畏敬の念を抱き、かつ心酔していたことが解る。賢治が有名になっていくにつれて、それまでは賢治に関して黙していたのだが次第に社会的に多弁になっていったというような人が居たかもしれないが、澤里は少なくともそのようなタイプの人物ではなかったであろうと判断できる。
 また、澤里武治は
 昭6徴兵検査で第二乙種。9月賢治が来訪した際、途中の遠野駅まで迎えに出て、そこから車中で「風野又三郎」の「どっとどどどう」の歌の作曲を命ぜられた。苦心したがついに成らず、花巻の家へ訪ねてその旨を報告した折の賢治の落胆に反省し、専攻科へ入った。
            <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)729pより>
のだそうだ。真面目で律儀な人物であったということが窺える。
 あるいはまた、『賢治小景』の著者板谷栄城氏は澤里の人柄を偲ばせてくれる次のようなエピソードを紹介していた。
 NHK仙台の「賢治ファンタジー」というテレビ番組のために、遠野の料亭で賢治の教え子沢里武治氏を取材したときのことです。
 南部遠野家の重臣の末えいで、古武士の風格がある沢里氏は背筋をピンと伸ばし、「私にとって賢治先生は神様です!不肖の弟子の私に、神様を語る資格はありません!」と言ったきり口をつぐんでしまいます。
            <『賢治小景』(板谷栄城著、熊谷印刷出版部)148pより>
 このことを知って、澤里武治は如何に賢治のことを崇敬していたかということが納得できたし、同時に、一方で断固とした信念と気骨の持ち主であるということも分かった。
 したがって、以上のような澤里の人柄からすれば、現段階では定説となっている「大正15年12月2日に上京する賢治をひとり見送」った日のことを、「どう考えても昭和2年11月ころのみぞれの降る日」と敢えて偽るよなうな人とは私は到底思えない。やはりこのような人となりの澤里であるがゆえに、「どう考えても昭和2年11月頃のみぞれの降る日」に賢治をひとり花巻駅で見送ったと自分の記憶に忠実に証言したのだ、と私には判断できる。

 畢竟、これじゃ、「校本」にあやかしが溢れていると私には見えてしまうのである。
 それに対して、賢治の最愛の弟子である澤里と柳原はともに信頼に足る人物だということを、おのずから、賢治に関することをわざわざ偽るような人間ではないということを私は確信した。

 続きへ
前へ 
 ”「賢治昭和2年11月から約3ヶ月滞京」の目次”に戻る。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 福寿草紀行(3/5、東和町中内... | トップ | 福寿草紀行(3/5、東和町鴬沢) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治昭和二年の上京」カテゴリの最新記事