常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

天下りの是非

2009年01月20日 | 政治

仲間と話をしていて、天下りをしている人々の話題になりました。中央官庁の要職にあった誰がどこに行ったとか、特定の業界のために誰がこんな政策を推しているとかいう類の話なのですが、どうしてもこういう話になると、批判的な論調に傾きます。私自身、こうした類の話をするときに、批判的な論調になってしまう気持ちは、よく理解できますし、実際にそういう感覚がないわけでもありません。

ただ、それぞれ正しいと信じた道が異なっているのは、致し方ないことです。とくに今日のように、時代の転換期にあっては、そうした考え方や信じているものの差異が顕著に表れてしまうということは、やむを得ないことなのではないかと考えます。

もう少し、天下りの本質について整理してみると、天下りというのは、その天下り先となる組織の社会的な価値や貢献度が問題だったり、そうした問題ある天下りが目的化してしまうような政策が取られることに、ネガティブな意味があると思われます。社会的に有効な価値を生み出していない、あるいは生み出さなくなるであろう組織のために、むやみな政策立案、実行がなされているとしたら、それは国民にとって、大変迷惑な話ですし、そうした組織に天下ることで、関係者の懐ばかりが潤う等ということがあるとしたら、それはとても困ったことです。

しかし、逆に考えれば、天下り先の組織が、大きな社会的意義を有しているとすると、天下り自体はそれほど大きな問題になり得ないかもしれません。むしろ、社会的に大きな意義がある組織を育てるために、産官一体となって協調体制を組むことは、評価されるべきであると見ることもできます。そういう意味で、社会全体がポジティブな方向に向かっているときには、むしろ天下りは、産官連携を深めるためのひとつの手法であると言うこともできるということです(「癒着と連携の違い」参照)。

このように問題を整理したとき、天下りの是非は、何を社会的価値あるものと考えるか、何を社会正義であると信じるかという違いに集約されるということなのではないかと考えます。もう少し端的に表現するならば、結果責任ということになるかもしれません。

つまり、国家を支えたり、繁栄をもたらしたりするための有効なシステムとは何かについて、経済人や政治家のみならず、官庁に勤められている方々についても、各々がよく考えて行動し、その結果に対してきちんと責任を取っていただけるのであれば、何の問題もないということです。

冒頭の批判的な論調になってしまう天下りの議論というのは、社会的にとても価値があるとは思えない組織や枠組みのために、政策全体が傾いているという思いから生じるものです。しかしもし、最終的にそうした組織や枠組みが、きちんと価値があり、有意義であることが証明されれば、その批判は当たらないということになるでしょう。

責任は大切です。皆さん大人なのですから、責任の意味は知っているでしょうし、地位や立場には、それが伴うことも、よくご存知のはずです。したがって、何をするのも自由です。そこには、批判も中傷も必要ありません。ただ結果で語るのみということではないかと思います。

今の時代が、転換期であるとするならば、次の新しい時代には、何が正しかったかが、きちんと結果として示されるはずです。私自身、天下る人々や、天下るためにいろいろと画策している人々については、じっくり観察していればいいだけのことだと考えます。官庁に勤められる人々の天下りが、それぞれ明るい未来につながるのか、責任を取らされるためのものになるのかは、個別の事例を含めて、じっくりと見ていきましょう。誰が何をしているのか、きちんと見守ることこそが、国民たる私たちの責務であると考えます。

《おまけ》
世界に意味のないもの、価値がないものはありません。本文の「社会的価値がない」という表現は、明らかにそれと矛盾します。私としては、「社会的価値がない」と表現したものも、次の時代に向かって、多くの人々に気付きを与える「反面教師」的な意味で、価値があると考えています。ただし、それらは次の新しい時代の社会においては、そうした意味での価値すら失い、自ずと消えていくものであるという理解です。

コメント (2)
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