常識について思うこと

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世界のリーダーたるべき日本

2008年01月23日 | 日本

日本の政治家や企業家の方々が、「日本のリーダーシップ」の必要性を訴えたりします。マスコミや評論家の方々も、そうしたことをコメントする場面をよくみかけます。ある総理大臣は、日本を「美しい国」等と呼んで、世界における特殊性・重要性をアピールしていました。こうした方々が日本の重要性をどのように認識されているか分かりませんが、これからの世界において、日本がリーダーシップを発揮しなければいけないというのは、事実だと思います。

しかし、国家としての「日本」を前面に出し、そのリーダーシップの必要性を説いたりすると、「右」のレッテルを貼られて、話の本質を聞いてもらえないようなこともあります。そういう意味で、本当に日本がリーダーシップを発揮する必要がないならば、私も特段、こうしたテーマについて意見することはありませんし、おそらく実際に「日本がリーダーシップを発揮すべき」とも思わないでしょう。しかし、これからの時代において、日本は自ずと、その重要性を高めていくのだと思うのです。

現在、地球規模で起こっている多くの深刻な問題について、その原因は欧米型の価値観の限界によるものではないかと考えます。つまり、現代社会の根源的な問題は、欧米型の競争原理主義と科学万能主義への偏重にあると思うのです。

競争原理は一定のルールを必要としている人間にとって、大変使いやすいルールです。しかしこのルールばかりに頼ってしまうと、あらゆるものが優劣で評価され、人間は常に勝者と敗者に分かれ、勝者になることが人間の生きる目的に摩り替わってしまいがちになります(「道具の目的化の危険性」参照)。競争ルールのなかで生まれた勝者は、勝者としての地位を保つためにそのルールの正当化に努め、その結果さらにルールは社会の仕組みとして強化され、世界は制度とシステムが複雑化していくことになります。その結果、勝者はさらに強くなり、さらに勝者の勝者によるルールの強化といった連鎖から、社会システムと人間の欲望ばかりが暴走し、地球問題の解決においては、身動きが取れない状況に陥っていくのではないでしょうか。

同時に、社会システムの強化には科学が利用されます。本来、科学の最先端の現場では、常に「仮説と検証」を行われており、その意味で科学は、未知の世界を解明する道具です。しかし、科学を知識として学ぶ一般の人々にとって、科学は既に証明されたものを知識として詰め込む対象となってしまいます。その結果、科学は目の前にあるものや目に見えるもの、既に証明されたものを正当化させるために非常に有効に機能するわけです。そのなかで、特に社会科学は、上記のような社会システムにおける勝者によって、それらの正当性の論理的裏付けに大いに利用されてしまうのです。

私は、こうした評価軸や社会の仕組みをすべて否定するわけではありません。少なくとも、これまでの世界はこうしたルールや考え方によって成り立ってきたわけですし、私自身がそのような秩序のなかで生まれ、育ってきた人間なので、それらを否定することはできません(「原罪とは・・・」、「過去への感謝、未来の創造」参照)。しかし、そうした秩序で生きている人類は、地球規模の問題を抱えるに至って、出口を見失っているように思います。

石油の莫大な利権を抱える人々が存在している一方で、戦争によって多くの貧しい人々が死んでいかなければならないという現実。温暖化を防ぐための二酸化炭素の排出については、排出権の売買という経済論理のなかで、国家間での利権争いが繰り広げられるなか、一向に排出量の減少が望めていないという現実。真実を真実のまま扱うことが許されず、権力を脅かすようなタブーには触れることができないマスメディアのみが、大衆にメッセージを送ることができ、大衆には事の深刻さが知らされていないという現実・・・。

現代社会の問題点を挙げていてはキリがありませんし、問題点の多さや具体的事例をひとつひとつ挙げること自体に、あまり重要な意味はありません。大事なことは、人類が地球破壊を起こしているという現実を目の前にして、今の秩序のままでは、人間はそれらの問題を自分たちひとりひとりの問題として認識できず、結果として、人類は次の時代を迎えられないという危険性です。

こうした欧米型の競争原理主義や科学万能主義に対して、日本には、それに対抗しうる独特の思想や文化があると思います。それは、たとえば騎士道と武士道の違いに出ていたり、一神教と多神教の考え方に現れていたり、良いかどうかは別にしていまだに脈々と受け継がれている天皇制が残っていたりといったところをみれば、明らかだと思います(「武士と騎士の違い」参照)。

日本には、欧米にはない日本独自の平和的な思想や相手への思いやり、言わずとも相手を信じるといった性善説的な考え方、目に見えない価値を積極的に認めていく寛容性といった独特の文化や思想が根底にあるのだと思います(「「No」と言えないことへの誇り」参照)。人間を単に優劣や勝敗だけではなく、それぞれ異なる軸で捉え、互いに尊厳ある存在として認め合うという精神が、日本には根付いていると考えます。

しかし、そうした日本のよさや本質的な意味は表現することは難しく、また科学的な説明や証明が非常に困難であるため、現代社会のスタンダードである欧米型の基準ではなかなか評価されません。欧米人に「Yes or No?」と迫られると、明確な答えを出せないのです(それが逆に日本の良さです)。その結果、残念ながら、日本の文化や思想は、欧米のそれに比べて、今日まで軽視され続けてきたように思うのです。

しかし、欧米型の思想や価値観によってだけでは、世界が出口を見出すことができず、地球問題に解決の糸口がみえない現代において、日本の価値や役割は、大きくなっていかなければならないものと思うのです。次の世界を切り開いていくために必要な思想や価値観は、武士道や多神教的な風土をもつ日本から発信していかなければなりません。経済的な貧富だけでは幸せの大きさは決まらないし、戦争の勝ち負けで国家や宗教の繁栄はありえないし、人間の優劣だけで人間の価値は決まりません(「人間の優劣と競争社会」、「使える人と使えない人」参照)。

ひとつの地球で、人類が永続的に住めるためには、人類の共存本能を呼び覚ます必要があるし、そのためには、次の時代において平和的で寛容的な思想を持つ日本が、世界のリーダー的存在になっていかなければならないと考えるのです。

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