常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

SOS団のご降臨と遷宮

2009年01月17日 | ヒーロー&アニメ

先日、ある方から、わが「自分神社」へ寄進物を賜りました。その人物は、「自分神社」の発端となる、私に対するお賽銭を始めた(「「自分教」の神社」参照)張本人でもあり、もちろん、その後の「自分神社」の発展についても、よく知っている人物です。当然、「自分神社」に祀られている数々のフィギュアの存在も知っています。先日、その彼がショッピングモールを歩いていたら、ちょうど良さそうなものがあったので、買ってきたと言って、わが「自分神社」に寄進してくれたのです。その寄進物は、「涼宮ハルヒの憂鬱」のキャラクター・長門の水着バージョンフィギュアでした。

ひとまず、ありがたくいただきました。

ところで、ただ一点、私としては、あまり普段と異なるものには、違和感を覚えてしまいます。所詮、お遊びで置くフィギュアなので、余計なこだわりを持つ必要はないのでしょう。しかし、せっかくの美少女系フィギュアですから、飾るにあたっては、多少「萌え」に対する私の考え方を整理した上で、お祀りしたいと思うのです。

「萌え」については、このブログのなかでも、何度か述べているところです(「「萌え」の本質と役割」、「アニメ好きですけど何か?」、「男の度量を見せるべし」等参照)。これはあくまでも、私個人の問題ではありますが、普段見られない水着姿やあり得ないポーズといった外見的な要素で、「萌え」を感じるというのは、なかなか難しいものです。「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界のなかで言えば、比較的いじられキャラのみくるちゃんならいざ知らず、冷静沈着な無口キャラ・長門が、水着姿で寝そべるというシチュエーションが、まったく想像できません。外見は、内面の延長線上にこそ生まれるという思いもあり、水着姿の長門は、もはや私が知っている長門ではなくなってしまうのです。

私にとっての「萌え」は、そのキャラクターが持つ内面的要素であったり、それがチラリと表出したときの言動にこそ、あるような気がしてなりません。したがって、私が「自分神社」にフィギュアを祀る場合には、そのキャラクターが本編に出てくるままの、普段の格好のものを選ぶようにしています。


SOS団3人衆

ハルヒと長門

遷宮後の「自分神社」

今回は、こうした諸々の思いもあり、長門有希嬢の登場をきっかけに、主人公の涼宮ハルヒを含む、SOS団女性3人衆(ハルヒ、長門、みくるちゃん)を揃えてみました。もちろん、ハルヒとみくるちゃんについては、普段どおりの制服姿です。とくにハルヒは、何かを思いついたようなノリノリのポーズで、いかにも団長・ハルヒらしい雰囲気が出ていて良いように思います。

ところでこの度、こうして新しいフィギュアを足していたら、これまで「自分神社」を置いていた場所が、相当手狭になってしまったため、お祀りする場所を変えることにしました。移転先は、普通のテーブルで、普段からいろいろと日用品を置いていたところです。

思わぬ遷宮となりましたが、来月には「かんなぎ」のナギ様にもご降臨いただく予定になっているので、スペース的にも余裕ができて、ちょうど良かったかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする