何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

「大」を疑え。「小」を貫け。

2011-12-11 11:08:46 | Book Reviews
『「大」を疑え。「小」を貫け。』 桜井章一・鍵山秀三郎、講談社+α文庫、2011年8月20日

p.27 何か事件が起こるまで動かない。具体的な被害届が出るまで動かない。だから、予防というか、そういう事件を事前に食い止めることができない。あきれるほどの「知恵」のなさです。 #RM

p.31 学校までが利益至上主義のなかにとり込まれていますから、感性とか「感じる」とかいう世界は邪魔になってしまう。そんなものはないほうがいいということで、おろそかにされてきたわけです。

P.32 私の会社も一部上場企業ですから、事業計画も決算も公表します。だけど、掲げた目標を必ずしも達成できるとは限りません。
 達成しなくても、誰にもペナルティはつけません。達成しなくても会社はつぶれないんですから。もちろん、いろいろな無理をすれば達成できるんです。だけど、それを達成したいというのは、私の個人欲であり、私の名誉心に過ぎないんです。

p.36 常に、そんなやり方でいいのか、とそれぞれの業界が自分たちの業界を否定するところから始めないと、その業界の改革や改善はできないと思うんです。それをみんな、自分たちの業界を否定したら仕事にならない、商売にならない、うまくいかないと思っている。そうじゃないんです。

p.47 むしろ何の約束もない、保証もないことに対して何かをするというところにこそ、夢や希望が生まれてくると、私は信じています。もちろん、何にも成果を得られないことをやるぐらいたいへんなことはありません。しかし、そこにこそ喜びが生まれてくるのです。

p.58 何かが終わったら、「これは終わりじゃねえんだ。これは始まりなんだよ」と、よく若い連中に言うんです。

p.61 自分のおカネをどれだけ自分以外のことに使えるか、その比率によって人間の真価が問われると、私は思っています。だから、どれだけもっているかとか、どれだけ稼ぐ能力があるかというようなことは、わたしは人間の評価の対象にはsません。そのもてる力をどれだけ自分以外のことに使うかということですね。

p.67 人に騙されたりして腹が立ったら、「あ、またつまらないことやってるな」と思うことにしています。悩んだりすることでおカネが戻ってくるんなら、悩んだり相手を憎んだりしますが、戻ってこないんです。戻ってこないものに囚われてどうしますか。これは二十の損になります。
 悩んだり恨んだりするおとで、エネルギーを失うんです。

p.69-70 心にゆとりのある人は、癒やしなんか求めません。必要がないからです。では、ゆとりはどういうところから生まれてくるかというと、やはり人に親切にするということでゆとりが生まれるんです。それが今の人は、人に親切にするということがないから、ゆとりがない。だから癒しを求めると。こういう悪循環なんです。

p.70 いまは将来に楽しみがないし、人に対して親切にもできないから、それはもう、心のなかはガサガサになってしまっています。だから癒やしという潤いを外に求めるということです。
 癒やしを求めるというのは、卑しいことであり、自分が未熟であるということを証明しているようなものです。
 もっちえば、癒やしを求めるというのは、自分のことしか考えていないということでもあります。要するに自己中心です。そうなっていけば、いいことを考えないし、人のいいところも見えない。人の欠点ばっかりを見るわけです。
 癒やしというのは人に与えられるものじゃなくて、自分で感ずるものです。

p.90 自分の美意識に反することに、自分がただ食っていくためだけに従うのなら、私は生きている意味がないと思うんです。これは一種のやせ我慢です。よく人から、「あなたはどうやっていろんな苦しいことを耐えてきましたか」と聞かれますが、やせ我慢です。やせ我慢で耐えてきたわけです。

p.93-4 ある組織の体制や権力が、その組織の繁栄や自分たちの保身のためだけにつくりだした「常識」なんていうのは、糞食らえです。そういう常識というのは、差別や不平等や、苦悩を生むものです。つまり、落ちこぼれを生むのです。たいへん怖いものです。
 上から強制してくるような常識は、やはり組織や自分たちの保身や利益のためにつくられたものが多いわけで、権力者の都合なんだということに、われわれはもっと気づかなければいけません。
 そういう常識は、ウソだったりごまかしだったり、見せかけや偽善だったりします。そういう常識に抵抗したり反抗したりすると、いわゆる「非常識人」になってしまいます。だから僕らは、非常識人を責めるんじゃなくて、まず常識のほうを疑うべきだと思います。常識の方向性がウソくさいから、非常識人が生まれるんです。

p.94-5 ただ、そういう糞食らえの常識に疑いを持つのはいいけれど、もろに正面から反抗するのはやめたほうがいいと思います。そこには必ず大きな石や落とし穴があります。
 会社なんかでも、もう魂をすべて出世だとかカネに売り渡したような上司というのもいると思います。そういう上司についたら、もう終わりです。そいつの常識とか価値観から外れたり、ましてや、それを否定したり反抗したりすれば、もう飛ばされるだけです。邪魔者は消せ、です。

p.101 カネを借りるというところには、返せばいいという、気持ちがあるんです。借りるということは、すでに人に迷惑をかけているんです。

p.104 外づらばかりで、かっこつけてる人は、もうかっこつけることにいっぱいいっぱいで、余裕というものがないわけです。女々しいと思います。見せかけのかっこよさなんです。そういうものは、どうも、男の分野ではないような気がします。男はやはり自然な生きざまでいなければいけません。

p.121-2 私の会社の店のお客さんで、つまらないことで難癖つけて、いつまでも譲らないのは、大企業の社員の人に多いようです。
 しつこく食い下がってきて、自分のいうとおりにしなかったら絶対許さないというような、そういう人たちです。人のいうことをまったく聞こうとしない。自分の基準でしかものごとを考えられない。人のことはどうでもいい。自分だけが幸福であればいい、そういう人間を学校とか会社がつくってしまったんです。

p.124-5 道場の幹部には、「お、あえが得たものを若いやつに伝えてやれ」といっています。キッカケのボールはいくらでも投げてやれ、といっています。相手が受けられるか受けられないかは、これは問題じゃない。そして若い子が何かかわったら、「それはボールを投げたおまえの力じゃないんだぞ。その子の力なんだぞ」といっています。やはり伸びるのは、最後は本人の力です。

p.136 何にもならないことをやったときにのみ、人間は成長できるんです。これをやったから儲かるということをやっていて成長した人はいないはずです。何にもならないことにさえ取り組めるという、その心が人間の成長につながるんです。

p.164 「心のキャッチボールだけはしろよ」と教えています。「関心」のキャッチボール、そして「気づき」のキャッチボール。「ボールのなかに心を入れろ。心というボールを投げるんだよ」といいます。

p.171 点数以外でも評価ができる大人が多くなれば、点数以外で頑張っている子供が生きてくるはずです。

p.176 でも、そういう人は真心がないから、やはり続かないと思います。それに、利用しようという下心は、みんなに見抜かれてしまうだろうし、やがて去っていくことになるでしょう。


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