何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

父親に、その職業にあこがれる

2009-01-30 23:10:44 | 心に残ること
第54回青少年読書感想文全国コンクール:福岡市内の3人入賞--中高姉妹も /福岡 〔福岡都市圏版〕毎日新聞 2009年1月30日 地方版

 「第54回青少年読書感想文全国コンクール」(全国学校図書館協議会、毎日新聞社主催、内閣府、文部科学省後援)の審査結果が29日発表され、福岡市内の筑紫女学園中と、福岡雙葉の中高姉妹の3人が入賞した。喜びの声や読書の楽しさを聞いた。

◆全国学校図書館協議会長賞
 ◇本の世界に新たな発見--筑紫女学園中3年・中野蕗さん(14)

◆サントリー奨励賞
 ◇作品通し自ら成長--福岡雙葉中1年・夏目祐衣さん(13)

◆サントリー奨励賞
 ◇瞬時の感情を描写--福岡雙葉高1年・夏目芽依さん(16)

 姉妹そろっての受賞に「一緒に賞がもらえるなんて……。二人で驚いています」

 芽依さんにとって読書は息抜きの時間。妹祐衣さんとは、お互いに書いた文章を交換して読み合ったのだそう。そんな姉妹も普段は理系科目が得意。将来の夢は二人そろって父の職業、薬剤師。
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 薬剤師になりたいと、父の職業に憧れるって微笑ましい。さぞかし娘から愛されるお父さんなんだろうし、薬剤師という仕事をしているところを、その苦労もやりがいも見て育ってきているんだろう。人から愛される仕事をしてきているから、子供たちも憧れるのだろう 
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一筆啓上

2009-01-27 23:03:15 | 心に残ること
一筆啓上、時々お前の夢を見る。子供たちにも出てやってくれ 1月27日12時49分配信 読売新聞

日本一短い手紙のコンクールとして知られる福井県坂井市(旧丸岡町)の「第6回新一筆啓上賞」の入選作が27日、発表された。

 今回のテーマは「夢」。国内外から、思い思いに夢をつづった6万1283通が寄せられ、大賞5点、秀作10点などが選ばれた。

 大賞となった福井市の小学2年・手賀梨々子さん(8)の作品は、「ゆめの国のお友だち」にあてた愛らしい手紙。「いつも、あそんでるとちゅうでバイバイ。ごめんね。朝、ママがおこしにきちゃうんだ」と書いた。

 同じく大賞の岩手県、農業岩渕正力さん(64)の作品は「時々お前の夢を見る。子供たちにも出てやってくれ」と、24年前の交通事故で逝った妻への思いがにじむ。
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 なんてピュアなことか。多くを語る必要もなく、優しさも溢れている。その時を一生懸命生きていることも伝わってくる。そういう思いが出せることが、素晴らしい。感動を与える。
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始末に困る人

2009-01-12 11:31:44 | 心に残ること
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬ也。(西郷隆盛)

 大義名分を持ってやっているようで、裏ではある思惑や私利私欲を持っているから、無私の人は始末に困るのだろう。
 あらぬ方向に導いてきたことが、現在の苦境や困難を招いてきたことを認めなければ、軌道修正も難しい。国家の大業といかないまでも、組織の大業と置き換えてもよい。本質を見据えることができるからこそ、命も名も官位も金も目にくれずに具申することもできる。昨今の不祥事の多くが利益追求を背景にしていることにも通じるように思われる。不祥事とまでいかなくても、組織崩壊には本質や社会的責任を見失って、バランスを欠いた業績拡大が背後要因となっていることも通じることも同様だ。

 これまでの進め方を大きく転換できるのは、そういう本質を見失わない見識、これまで陽の当たるところに出して来なかった(出そうとしなかった)意見であろう。ゴミか埃として意図的に“捨ててきた意見”の中に未来を開ける鍵が眠っているようである。
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喜びを表さないことが謝罪

2009-01-05 22:16:38 | 心に残ること
東洋大完全V!胴上げなし 頭下げた…箱根駅伝 1月4日8時0分配信 スポーツ報知

◆第85回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝=報知新聞社後援)(3日) 東洋大が万難を乗り越え、総合初優勝だ-。往路を制した東洋大は6区の富永光(2年)が早大・加藤創大(3年)に逆転を許したが、8区・千葉優(2年)が再逆転し復路もV。通算11時間9分14秒で出場67回目にして初の総合優勝を完全Vで飾った。昨年12月1日に長距離部員(同日付で退部)が不祥事を起こしたことを考慮し、ゴール後は優勝チーム恒例の胴上げをせず、部員全員でコースに一礼。感謝の気持ちを表した。金栗四三杯(最優秀選手賞)は5区で区間新記録をマークした柏原竜二(1年)が選ばれた。(天候晴れ、気温マイナス2・7度、湿度77%、微風=スタート時)

 箱根路を、ついに極めた。東洋大10区の高見は、苦しそうな、今にも泣きそうな顔をしながら右手でタスキを握り締め栄光のゴールテープを切った。1933年の初出場から77年目、67回目にして、初の総合優勝。史上最も遅く、たどり着いた栄冠にも、歓喜の胴上げを始めない。今、走って来た道に対して、沿道を埋めた人々に対して、そして何より駅伝そのものに対して、長距離部員56人は一列に並び頭を下げた。

 「ゴールの10分前に4年生で話し合って、胴上げはしないでみんなで一礼することを決めました」と大西一主将。昨年12月1日、2年生の長距離部員(同日付退部)が強制わいせつ罪の現行犯で逮捕された。被害者をはじめ、迷惑をかけた関係者に対して、彼らができる精いっぱいの償いを行動で示した。

 復路は4人の2年生が起用された。同期の仲間が起こした不祥事に、ショックは大きかった。「本当は出場できる状況ではなかったのかもしれない。でも、その中で全力を尽くすしかなかった。みんなの走りをテレビ付き携帯で見ていたら、走る前から泣きそうになった」と高見は言った。

 全員駅伝はメンバー10人だけではない。この日の早朝5時。朝食後に佐藤監督代行は、6区にエントリーしていた大西一主将から、補欠の富永に変更することを両者に告げた。2年連続山を下ってきた大西一主将のほおには、自然と涙がこぼれたが「はい、分かりました」と受け入れ、献身的に富永の付き添いを務めた。
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 チームの仲間が起こした不祥事に対して、出場辞退という選択肢も当然あったと思う。一方、個人が起こした事件であれば、当事者個人が責を負うのは当然としても、チームとして責任を取らなくてもよいという意見もあろう。
 
 その中で舞い込んだ優勝。けっして下馬評は高くなかった。だからこそ大手町ではもっともっと喜んでいい場面だったはずだ。ただでさえ、スポーツ選手にしてみれば、それまでのすべての苦労が報われた瞬間でもある。そこで喜ばずして、どこで喜ぶというのだ。

 そのクライマックスともいえる、勝者だけが行う権利を持つ「胴上げ」を辞退した。誰の発案なのだろうか。キャプテンか。

 長距離陸上部は胴上げをしなかったからといって、けっして許してもらおうとなど思っていないだろう。自分たちにできるせめてもの償いとは何か。出場辞退も十分考えられる中で、考え続けてきたに違いない。だからこそ、そのチャンスが与えられたとき、そういった提案が自ずと湧いたのだと思う。駅伝の優勝もさることながら、そういった人間性こそ勝利者に相応しいと思う 

 被害者にしてみれば、加害者個人のみならず、「東洋大学」の名を聞くことすらおぞましいような状況だったに違いない。被害者は、またその家族、関係者は、胴上げを辞退したことを知っただろうか。
 事件とは別に、加害者を許す必要などないから、せめてそういった心遣いがあっただけは加害者およびその関係者の耳に届いて欲しい。

 逆に加害者本人は、胴上げ辞退を知って何を思ったのだろうか。答えなどすぐ見つかるはずもないに違いない。チームメイトの思いに報い、償うのはこれからだ。何が何でもそれに応えて欲しいと思う。

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息子の心遣い

2008-12-25 23:19:38 | 心に残ること
<こもれび>息子の心遣い 毎日新聞 2008年12月25日(木)13:00

長野県松本市の精神障害者自立支援センター「てくてく」に通う渡辺清子さん(48)は毎月、11日になると涙もろくなってしまう。北海道に住む大学生の次男(23)が、アルバイトの稼ぎを送ってくれるからだ。「毎月の電気、ガス、水道代や食費を振り込んでくれるの。通帳を見るたびに涙腺が緩んで……」。底冷えする信州の冬を前に、灯油代も入っていた。

 15年前、友人とのトラブルをきっかけに摂食障害とうつ病を患った。離婚も経験した。大学進学を目指す次男の学費を賄うため、飲食店などを転々とした。米が買えず、三食ともリンゴで済ませたこともあった。

 母親思いの次男は、愛犬を誤診で失った経験から、獣医師を志した。学業の傍ら、搾乳やジャガイモの収穫といったアルバイトで、学費と清子さんあての仕送り分を稼ぐ。「お母さんはたくさん苦労をしてきた。もう何もしないでいいよ」。優しい言葉とともに、とれたての野菜を送ってくれる。「アルバイトに注ぐ力を勉強に向けてほしい。心遣いはとてもうれしいけど、私への心配が、息子の夢を閉ざしてしまうのではないかと思うとつらくて……」

 わが子の将来を案じる親心よ、北の大地で頑張る次男に届け。
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役員から率先して賃金カットしたら

2008-12-16 23:35:17 | 心に残ること
JAL社長の倹約姿勢をCNNが報道 米CEOとは対照的に米国民から高評価 12月2日18時0分配信 MONEYzine

 米CNNが先月放送した1本のニュースが米国のインターネットユーザーを中心に話題になっている。そのニュースは、CNNが日本の航空会社、日本航空(JAL)の西松遥社長を取材したものだ。

 ニュースでは市営バスを利用して会社に出勤し、社員食堂で一般社員と並んでランチを食べる西松社長の様子が放送された。先月19日に米3大自動車メーカー(ビッグスリー)の首脳らが公的資金を要請するために、デトロイトから豪華なプライベートジェット機でワシントンに乗りつけた件が国民の反感を買い社会問題となっている中、世界トップ10に入る国際航空会社・JALの社長の倹約姿勢は、多くの米国民に驚きをもって評価されている。

 米国企業のCEO(最高経営責任者)らが経営不振にもかかわらず高額の所得を得ていることについてCNNから意見を求められると 「日本では、トップと社員の賃金格差は小さい。企業はお金ばかり求めると経営は失敗する。それを私たちはバブルの時代に学んだ」 と答えた西松社長だが、とりわけ米国民を驚かせたのは、昨年の彼の給料が自社のパイロットよりも低い9万ドル(900万円)だったことだ。自らの給料に対し、西松社長は 「(経営不振が原因で)早期退職した社員は私とだいたい同じ年代。私も彼らと痛みを分け合うべきで、給料を減額した」と 述べている。
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 何もそこまでしなくても・・・・・と苦笑している経営者も多いことだろう。経営が苦しいにもかかわらず、“オレはそんなことしないよ”と目を背けている経営者もいる。また、昇給を停止し、ときにカットしながら、役員報酬は安定的に増やし、好待遇も維持しようとしている会社もあるとさえ聞く。

 JAL再建は始まったばかりで、もうしばらくの時間が必要だろうが、この姿勢は多くの者に歓迎されるだろう。離れていた消費者を戻すきっかけにさえなりうる。

 派遣や非正規雇用労働者を平気でリストラする企業も少なくないが、そういう労働者の首を切るのなら、それに応じて役員も解雇するくらいの、同じ痛みを伴うくらいでないと納得されまい。雇っているときは遜色ない仕事を課しておき、経営に行き詰まると当然のごとく解雇するのは、人の道に反するとしか思えない。

 日本航空がどこまで、どのように再建されるか注目したい。
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伝説の走塁

2008-11-24 21:35:31 | 心に残ること
西武“伝説の走塁”再現でアジア王者 11月17日9時40分配信 デイリースポーツ

 「アジアシリーズ・決勝、西武1-0統一」(16日、東京ドーム)

 お互い無得点の九回二死一塁。佐藤の打球は低いライナーで左中間を襲った。長打を警戒し深めに守っていたため、一気に生還は難しい状況。だが、慌てて捕球した中堅手の返球が緩く、清家三塁コーチがグルグル腕を回す。さらに、中継に入った遊撃手も本塁を全く気にしていない様子だったため、一走・石井義が長駆サヨナラのホームを踏んだ。

 試合後、清家コーチが「伝説のプレーが出たね」と振り返れば、渡辺監督も「あの時と似ているのかな」と充実感たっぷりに話した。巨人と対戦した87年の日本シリーズ第6戦。八回一死一塁から秋山の中前打で一走・辻が一気にホームインし、リードを広げた。シリーズ前から巨人の中堅・クロマティの緩慢守備を見抜き、スキを突いた走塁。西武はこの試合で日本一を決めた。

 激走した石井義は「スキあらばと思っていた」と笑顔。クライマックスシリーズ前にその伝説の場面が収録されているDVDを購入して見ていたという。チームでも大会前に統一のビデオを見て外野守備にスキがあることを確認し、ミーティングで話題にしていた。

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 もう今から20年以上も前のことなのに、めったに訪れるチャンスではないものの、そういう機会があればやってみようということが選手に引き継がれているということは素晴らしいことだ。
 
 外野手の肩が弱いと見るや、試合開始時から常に狙っていたのだろう。
 果たして、他のチームがやったことであれば、同じように出来たであろうか。ある特定の選手だけが思ってもダメだろう。走者もコーチもわかりあえている。3塁手前でいきなりコーチの手が回されてから、改めて気合いを入れて走るのでは遅い。そういうこともあるかもしれないと、1塁をスタートした時から想定済みで走っていなければできないことだろう。先輩の雄姿をビデオで見て、自分たちの武器として備えていた・・・、だからその場面で容易にベールを脱ぐことができたのだと思う。

 伝説が生きている。いまや受け継がれて、伝統になりつつある。さらに今後も次の世代に引き継がれてお家芸になるに違いない 
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神の火を制御せよ

2008-08-09 22:38:03 | 心に残ること
「成果だけ求めた科学者人生恥じる」 原爆開発参加者 悔悟の長崎訪問 米国離れたヒントンさん 西日本新聞 2008年8月9日 00:13

 米国の原爆製造計画「マンハッタン計画」に参加した米国人女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が8日、長崎市を初めて訪れた。無差別大量殺りく兵器として原爆が使われたことに憤り、祖国を離れたヒントンさん。爆心地に立ち、自らが生んだ核兵器の廃絶を強く願った。

 ヒントンさんは大学院で物理学の才能を認められ、24歳で計画に加わった。「砂漠に落として威力を知らしめ、ドイツの核兵器使用をやめさせるのが目的と思っていた」という。

 ウラン型原爆の広島投下を新聞で知り「まさか」と思った。3日後、プルトニウム型原爆が長崎に落とされたことも新聞で知り、二重の衝撃を受けた。米国の行為が許せず1948年に中国に移り住み、北京郊外で酪農をしながら核兵器廃絶を訴えてきた。

 ヒントンさんは米国の作家パール・バックの小説「神の火を制御せよ」のモデルとされる。邦訳を発行した東京の出版社の招きで初来日した。関係者によると「長年来日を希望していたが、機会が得られなかった」という。

 広島市に続いて長崎市に入り、長崎原爆資料館などを見学。展示された長崎原爆「ファットマン」の模型を無言で見つめ、熱線で溶けたガラスや重傷を負った人々の写真に「なんてひどい」とつぶやき、うつむいた。

 「私は研究成果だけを求める純粋な科学者だったことを恥じる。若い科学者には、自分の行為が招く結果を考えて行動してほしい」と静かに語った。


原爆開発:女性科学者が初来日 原爆ドームで絶句 毎日新聞 2008年8月6日 2時30分

 米国による第二次大戦中の原爆開発計画に携わった女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が初来日し5日、広島を訪れた。数万人の命を一瞬で奪った科学に絶望して米国を離れ、中国へ渡って60年。科学者であることを捨て、酪農に従事したが、苦悩がなくなることはなかった。「自分がつくったものがどんな結果をもたらすのか。それを考えず、純粋な科学者であったことに罪を感じている」。しょく罪の意識から、広島訪問をかねて望んでいた。【平川哲也、黒岩揺光】

 「オーフル(awful、ひどい)……」。5日午後、原爆ドーム。ヒントンさんは鉄骨がむき出しの最上部を仰いだ。ドーム脇の英語の説明文を一語一語かみしめるように読んだ。「私はただ、実験の成功に興奮した科学者に過ぎなかった」

 1945年7月16日、米国南西部のロスアラモス近郊。立ち上る人類初の核実験のきのこ雲に、ヒントンさんは胸を躍らせた。原爆を巡るドイツやソ連との開発競争に打ち勝つため、42年に米国が始めた「マンハッタン計画」。最大時で12万9000人を動員した原爆開発計画が結実した瞬間だった。

 「科学を信じていた」。大学で物理学を専攻した21歳のころ、放射線の観測装置を完成させた才女は44年春、請われるまま同計画に参加した。ヒントンさんはプルトニウム精製を担い、全資料閲覧と全研究施設立ち入りを許可される「ホワイト・バッジ」を与えられた。約100人しかいなかったという。核実験の2カ月前にドイツは無条件降伏しており「研究目的の原爆開発であり、使われないと考えていた」。

 しかし8月6日。広島上空で原爆がさく裂する。新聞で原爆投下を知ったヒントンさんは声を失った。「知らなかった。本当に知らなかったの」と、まゆをしかめて話した。

 戦後は核兵器の使用に反対する動きに加わった。48年、内戦が続く中国・上海に渡った。内モンゴルに移住し酪農を営んだ。消えた足跡に、米国の雑誌は「原爆スパイ」と書き立てた。健在が知られたのは51年、全米科学者連盟にあてた手紙が中国の英字紙で報じられたからだ。それにはこうあった。

 <ヒロシマの記憶--15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ>

 あの朝から63年。今なお後遺症に苦しむ人がいる。今なお米国を憎む人がいる。「なんと言えばいいか……」。ヒントンさんは絶句し、宙を仰いだ。
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なぜ君は絶望と闘えたのか

2008-07-22 22:52:55 | 心に残ること
【くにのあとさき】東京特派員・湯浅博 なぜ絶望と闘えたのか 産経新聞 2008.7.22(火)08:15

 光市母子殺害事件の遺族、本村洋さん(32)が犯人の死刑判決を勝ち取るまでの9年間は、司法への義憤と自らの死のはざまで揺れる過酷な日々であった。

 その青年の胸に刻まれた言葉は、「天網恢々(かいかい)疎にして漏らさず」だったという。天に張る網は粗いが、悪人は漏らさずに捕らえるという老子の言葉である。

 妻子を殺害されながら、なぜ彼は3300日を闘い抜くことができたのか。誰もが抱いていた思いは、おそらくこの言葉の中に隠されているような気がする。

 ジャーナリスト門田隆将氏の新著『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮社)を読み、彼を何度も「闘いの場」に引き戻し、支え続けた人々がいたことを知った。

 世間には人をだまし、訳もなく人を刺し殺す不逞(ふてい)の輩(やから)がいる。それでも門田氏の筆は、いまだ、決然と正義を貫こうとする人々がいることを伝えてくれる。

 絶望との闘いは、むろん本村さんのたぐいまれなる精神力によるところが大きい。テニス好きの彼は、多感な中学時代にネフローゼ症候群を発病し、以来、この難病と闘ってきた。このとき、彼に勇気を吹き込んだのは主治医の佐藤克子医師であったという。

 「あなたは病気と結婚しなさい。それ、覚悟するのよ!」

 幸運だったのは、妻、弥生さんとの出会いだ。「無理かもしれない」と宣告されていた子供を授かったことでもある。それだけに、突然、愛妻と子供を無残に殺された喪失感はいかばかりか。

 その年、平成11年の年が明けると、本村さんは再度のネフローゼ治療を終えて病院を退院し、新日鉄の職場に復帰した。そこに襲った悲劇-。犯人は18歳の配管設備会社の社員だった。

 新たに少年法の壁が立ちはだかる。奥村哲郎刑事は本村さんの心理状態が極限にあることを察知すると、神戸・酒鬼薔薇事件の遺族である土師守さんに彼への励ましの電話を依頼する。2人は内面の葛藤(かっとう)を吐露しあい、被害者無視の司法に怒りを向ける。

 生きる意欲をなくし、上司に辞表を提出したこともあった。しかし上司は「君が辞めた瞬間から私は君を守れなくなる」とそれを許さない。「君は社会人たれ」と辞表は破り捨てられた。

 1審の山口地裁判決で犯人が死刑にならなければ、「命を絶とう」と思い詰めていた。それは「被害者が2人なら無期懲役」という司法の世界にある相場主義への挑戦である。1人であろうと人を殺(あや)めた者が、自分の命で償うのは当然ではないかとの思いだ。異変に気づいた上司がかけつけ、自殺を思いとどまらせている。

 山口地裁の1審判決は、相場観どおり「無期懲役」になった。このとき、本村さんは会見で司法への絶望を語った。しかし、吉池浩嗣検事は「100回負けても、101回目をやる」と目頭を赤くして本村さんらに訴えたという。

 門田氏の報告は日々のニュースが追えない事実の積み重ねで、舌を巻かざるをえない。

 こうして9年の歳月が流れ、ことし4月、最高裁の差し戻し控訴審で死刑判決が下された。判決の翌朝、門田氏は広島拘置所で犯人に面会する。男は「胸のつかえが下りました」と述べ、憑(つ)きものが落ちたようだったという。

 どんなに司法制度が加害者に甘く、大弁護団が加勢しても、本村さんに対する物言わぬ支援者たちは、一貫して「疎にして漏らさず」を支持していた。(ゆあさ ひろし)
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戸塚洋二さん死去

2008-07-10 22:27:45 | 心に残ること
戸塚洋二さん死去 ノーベル賞目前に…恩師の小柴さん悲痛 7月10日13時59分配信 毎日新聞

 戸塚さんが施設長を務めた東京大宇宙線研究所神岡宇宙素粒子研究施設(岐阜県飛騨市)の鈴木洋一郎施設長は「突然で頭の整理ができない。スーパーカミオカンデの成果は、戸塚さんの強いリーダーシップがあってこそ生まれた。研究への姿勢は非常に厳しくいいかげんな実験解析など絶対に許さない人。いい意味で怖い先輩だった」と肩を落とした。

 宇宙素粒子も戸塚さんのことも知らないが、科学の世界で、さらに人類にとってこういう人の存在がいかに大きいかは、わかるような気がする。

 人間は弱いから、強いように見えても、ある時どこかで折れて、許して、甘くなってしまいがちである。自分で自分が崩れるのを抑えるのが精一杯のようですらある。そのエンジンは、「自分に厳しく生きる」だけでは続かず、自分が守るべきところを守り、変えてはいけないことを変えずにいるのは、科学のためであり、神のためであるような気さえする。神に任され、現世で真実を担当し、後世に伝えるには、それなりの人格者が担うのがよい。

 きっとそんな人だったのではないか。誰もが、できそうで出来ない。ときに煙たく思われようとも、頑固だと思われようとも、こういう人がいたからこそ、ダメな自分が存在しえたのではないかと思えるのではないか、尊敬に値する人物とはこういう人なのだろう。

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訃報に接し

2008-04-21 21:45:57 | 心に残ること
 夕方、突然訃報が送られてきた。少し前から体調を崩しているとは聞いていたが、半年ほど前に会合で会っていたので驚いた。

 F先生は、私が大学を卒業した頃、九州の大学病院でDI室を担当されており、F先生が書かれた文献は何度も繰り返し読んだものだ。“大学病院でDIを担当する人というのは、このくらい優秀でなければならないのか・・・”、誌面で一方的に存じ上げていたものの、実際に初めて会ったのはつい2年ほど前だったと思う。

 雲の上の存在だった人だ。気さくで、明るく、エネルギッシュな人だった。年月を経て、そんな人と集まりで同席することになって、まだ間もなかった。これから話をする機会を増やすことができればと思っていた矢先だった。

 ご実家が遠方であり、通夜も告別式も済んだというから、出向くこともできないものの、きっと祭壇では優しく微笑んでいるに違いない。

 これからも一線で活躍されるとばかり思っていた。ご冥福を祈るしかない。
 F先生、たいへんお世話になりました。どうぞ安らかに。どうぞ見守っていてください。
Comments (2)
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事故にも負けず

2008-03-22 19:22:13 | 心に残ること
JR脱線事故で両脚切断の同志社大生が卒業 3月21日11時36分配信 産経新聞

 平成17年4月のJR福知山線脱線事故で両脚を失った同志社大経済学部4年、林浩輝さん(22)が21日、同大学を卒業した。周囲の励ましに支えられて絶望感を乗り越え、友人と一緒に卒業したいという念願をかなえた。4月からは東京で広告代理店に勤務し、新たな生活を始める。

 この日、濃紺のスーツにグレーのネクタイ姿の林さんは車いすに乗って、卒業式会場となった京都市上京区の今出川キャンパスを訪れた。午前10時からの式では、壇上から下りた八田英二学長が直接、車いすの林さんに学位記を手渡した。

 復学後も辛い日々は続いた。義足と松葉づえを使う生活で、友人が自分の歩調に合わせて歩くことにさえ重荷を感じた。車いすを使うようになったが、迷惑をかけているという思いは拭(ぬぐ)えなかった。

 転機は、友人との会話だった。悩みを正直にぶつけ、「おれといて楽しい?」と尋ねた。友人は「同情で付き合っているわけじゃない。お前といて楽しいのは当たり前だろ」。涙がこみ上げた。一生付き合える友に出会えたと感じた。

 困っている人に手を貸すのも、「人間として」常識的にかかわることもあるだろうし、そんなものを超えて当然のこととして、義務的でなく、それを苦に思うものではなく、係わることのできる関係。

 相手も、不自由な生活になりたくてなったわけじゃない。そりゃ、健康で満足な体ならとんではねて、より行動範囲も広がっただろうから、全くその後に影響がないというわけではないだろう。

 ハンディを抱えたとしても受け入れられる関係があるということに感動した。
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続ける技術

2008-02-29 00:00:04 | 心に残ること
 石田淳氏の講演でのメモから。

 ある目的を持って物事を続けられる人は、およそ2%にすぎない。3カ月でもいいから、一つのことをどうやって楽しく続けるか。習慣化することで、無意識につ行動できるようになる。

 ダイエットでも、達成した人の大半が半年にリバウンドでこれまで以上に元に戻っている。いかにその状態を維持することが難しいことか。

 やる気、意志、モチベーション、これらは瞬発力に関係する。どうやってやる気を出させるかではなくて持続力。継続するための環境を整えること。
 ポイントはスモールゴールの設定。どうやって決めて、実行していくか。

 段階を追って、少しずつやっていくことが大切。急激な行動の変化は持続しない。“急にやろう”は続かない。「いかに継続するか」が重要。

 楽しくやるセルフマネジメント。人は楽しいものでないと行動を継続できない。いつ、誰がやっても同じ結果が得られるか(再現性)。どんなリーダーがやってもできるか。

 毎日の行動を、一つできただけでも評価するようにする。結果ではなく、途中の行動(成果を得るための行動のステップ)を評価する。たとえば、できたらカレンダーに○をつけていくだけでもよい。

 行動が続かない理由は、次の2点。
1)やり方がわからない
2)やり方がわかっているが、継続できない

 「やり方」とは、知識と技能。技能とは、技能のトレーニング。しかし、ついひとりのときはサボってしまうこともある。継続が難しいのは、継続するための環境が確保されていないから。

 目標ややる気が、人が行動を起こす時の影響力は0~せいぜい20%。どうすればやる気を出すかが重要ではない。どういう環境条件を作ればよいか、が重要。

 「やり方がわからない」といに、成果に至るまでの行動を分解し、チェックリストで行動ができているかを評価し、わからない行動はトレーニングで補う。
 「行動を分解する」とは、初めての人、未経験の人、重度障害者の人にでもわかるように、ひとつひとつの行動を分解する。
 そして、行動分析を行う(メジャーメント)。マインドマップを用いて自分の継続したい行動を分解し、優先順位をつけてみる。

 継続できないのは、have to(しなければならない)になっているから。それをいかに want to に変えていくか。黙っても自分で道を切り開ける人(上位2割)よりも、多くの8割を変えていく。
 wanto to で行動を促すには、褒めて、楽しく行うようにする。そうでないと、生産性は上がらない。また仕事が出来る人であっても、放っておかないで、不定期でいいあkら接触して褒める。

 行動を促しているようで、具体的でない言葉はたくさんある(例:コミュニケーションをとる)。具体的でないと、評価できないし、褒めることもできない。あいまいなままでいると、主観的になる。

 指示も、具体的な言葉で行う。そして、行動したら評価する。くれぐれも、カッコイイけどあいまいな言葉、抽象的な言葉で済ませない(例:明確化する、向上する、検討する)。

 ABCモデル。A:先行条件-->B:行動-->C:結果。
 先行条件(目標、ゴール、締切り、トレーニング、優先順位など)では、行動は持続しない(せいぜい0~20%)。
 どうやったら、また行動を繰り返したくなるか。どうすれば、またくりかえすようになるか。結果次第で、行動をくり返すようになる。これが80~100%を占める。

 叱ることもあるが、行動に対して叱る。人格を持ち出さない。

 意志の力だけでは続かない。続かないのは、意志の力が弱いからではない。
 何を「ターゲット行動」として、それができるように不足している行動を増やし、過剰行動を減らす。行動のピンポイントを見つけ、「毎日、これこれの行動をする」とし、記録する。

 不足行動は増やしにくい。すぐに成果の出ないものは、持続しにくい(逆に、すぐに効果の出るものは、持続する)。最大で2週間程度、できれば1週間以内に、行動したことに対して、自分へのプレゼントを行う。評価は、グラフやカレンダーへの記録によって行う。

 ライバル行動として、行動を邪魔するものがある。それらは近づけないに限る。身の回りに、どんなライバル行動があるのか、考えてみる。
 また、どういう環境を作れば、やろうと思うのか、それを作る。

 ターゲット行動を増やすために、サブゴールをたくさん作る。行動のハードルを低くする。動機付け条件を作る。

 そもそも、「続けたいこと」は、本当に続けるに値する行動かどうか。そうであればターゲット行動を決めて、日々続ける。

 スモールゴールは、あまりハードルを高くしない。一般的に作る難易度の半分程度にとどめておく。毎日1時間行う、を30分程度にするように。
 毎日、新たな時間を工面して絞りだすよりも、生活のどこかの時間に組み入れるほうがよい。急激な生活の変化は、難しい。
 ポイントは、自分に厳しくしないこと、挫折してもよい、と考えておくこと。挫折したら、ハードルを下げて、再開すればよい。
 スモールゴールの例として、ここまでやったら、自分の好きな喫茶店に行く、ちょっとしたものをプレゼントする、など。

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ミュルレル先生の遺志

2008-01-27 23:04:25 | 心に残ること
歴史文化ライブラリー67「薬と日本人」 山崎幹夫・著、吉川弘文館・発行、1999年5月1日

 新年早々、ある講演会で著者は、現在の日本の医薬分業を、薬の専門家をこの国に誕生させるにあたり尽力された、レオポルド・ミュルレルさんの胸像のことを触れられた。東大の竜岡門を入ったところからわけなく、ひと目につきにくい場所にあるのだそうだ。山崎先生は、ミュルレルさんの胸像を探すために靴をダメにしてまでも木々をかきわけてその前に着いたそうだが、薬学部の校舎の脇から下山先生の胸像の前を経由すると、案外カンタンにその前までたどり着けた。

 道路からちょっと見上げれば見えるほどのところにあるのだが、日頃は低木に囲まれていてひと目につきにくい。近くまで行ってみたが、胸像の土台に彫ってある文字も判別しにくく、ミュルレルさんかどうかはっきりしない。しかし、髭をたくわえ、頑なに前を見つめる力強さは、まさしくドイツ人らしかった。


 今は調剤報酬改定を目前に控え、ジェネリックがどうのこうの騒いでいるが、ミュルレルさんが「薬学は医学と独立した科学であり、医師、医学者が立ち入る領域ではない。日本に伝わる古来の医療慣習は直ちに正さなければならない」(p.50)と主張してくれたことから、日本に薬学が生まれ、その後日本の先駆者によって医薬分業の体制整備が図られてきたのだ。

 それがまるで今は医薬分業は当然で、フィーの算定要件がどうなるのかと戦々恐々としている向きもある。日本に全く薬学というものがない時代に、ミュルレルさんが医学とは切り離した薬学の必要性を主張され、誕生させたことを思うと、調剤報酬にやきもきするばかりで、日本における医薬分業の質をどこまで高めてきたのか、国民の健康に寄与する医療従事者としてやってきたのか、原点を忘れてうつつをぬかしている自分を振り返って、たいへん恥ずかしい思いがした。

 今のそんな風潮の日本を見て、ミュルレルさんは嘆いているにちがいない。味方が誰ひとりとしていない中にあって、薬学の根を植え付けてくれたからこそ今がある。ミュルレルさんが、日本もここまできたかと微笑んでくれる時代に向けて、まだまだ薬剤師はもっともっと精進すべきであると思った。

 また機会があれば胸像の前に行ってみたいと思う。きっと同じことを自問自答するだろう。
Comments (2)
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平野秀典さんのセミナー

2007-11-16 13:26:05 | 心に残ること
 過日、感動プロデューサーを自称する平野秀典さん(ドラマティックステージ)のセミナーに行った。冒頭、BGMとともに登場した平野さんは、自己紹介はさておき、張りのあるテノールを思わせる惚れ惚れとする声で、ある実話を紹介する。

 とあるレストランに、たいへん客から評判の良い若い女性アルバイトがいた。その彼女、このたび就職が決まり、店を辞めるすることになった。経営者としてはたいへん残念ではあるが仕方がない。新たな門出に対し、お祝いとこれまでの感謝を述べ、最後の仕事を指示した。その仕事とは、なんとトイレ掃除だった。

 しかし彼女は、何でこの機になってトイレ掃除なのか、などという素振りをみせず、いつも通りに受け入れてトイレ掃除に向かった。

 その間、経営者はレストランに来ている約30名ほどの客に、花を1本ずつ託し、その彼女が来たときにこれまでの労をねぎらってやってくれないか、と依頼する。客はレストランに食事をしに来ているのである。店側の都合なのだから、客を巻き込まないで店側でやってほしいという客がいても不思議ではないところであるが、なぜか客はみな快く引き受けたという。

 後刻、トイレ掃除を終えた女性アルバイトがテーブルを回ると、客からこれまでの感謝の言葉と共に花が手渡されていった。彼女が号泣したことは言うまでもない。

 感動とはどういうものか、心を揺さぶるとはどういうものかを説くための導入としては、十分な逸話だった。
 えてして話の主人公がベテランではなく、若者であることも世の中捨てたもんじゃない、と思わせるところもいい。

 どこのレストランか、一度行ってみたい、とか、ウチの娘もそうなってくれれば、などと現実に引き戻すようなことは考えず、味わいのある話だった 
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