簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

平清宗の胴塚(東海道歩き旅・近江の国)

2024-05-13 | Weblog
 「矢橋の渡し舟」は、距離は短いが、中々すんなりとは利用出来ない。
歩きで一里以上も長かろうが、瀬田橋廻りの方が着実に前進できるので、
成果を急ぐなら堅実な方法をとる方が良い、いわゆる「急がば廻れ」と
言われるようになった。



 左に稲荷神社の赤い鳥居を見て西進すると、矢倉南の交差点で旧道は
一旦途切れ、国道1号線を斜めに越える。
草津は近年京阪神のベッドタウンと言われるだけに発展著しく、高層や
中型のマンション風の建物がこの交差点を取り巻いている。



 国道を横断した先の上北池公園に、「ようこそ南草津『遺跡と萩の育
むまち野路』の玉川へ」と書かれた観光案内板が有り、近くに「野路一
里塚跡碑」が建てられている。
 江戸から数えて119番目の一里塚で、嘗ては両側に松が植えられていた。
実際の場所はここより少し北西方向にあったらしい。



 かがやき通りを越えると、旧野路村に入り、すぐ左に浄土宗のお寺・
教善寺がある。右に南草津病院を見て進むと、その先の民家のブロック
塀越しに、五輪塔の写真と共に、「平清宗」と書かれた案内板が有った。



 平清宗は、平宗盛の嫡男、平清盛の孫に当たる平家の若武者だ。
壇ノ浦合戦で源氏に敗れ入水したが、父と共に源義経の囚われ人となり、
鎌倉に送られ源頼朝の前に引出され、対面が済むと、京に護送されたが、
その途中この地で処刑された。



 悲劇の若武者と言われた清宗は、首を刎ねられ六条川原に晒されたが、
当地に胴が残ったため胴塚が建てられた。
 約820年を経た今でも南草津病院を経営する遠藤家によって懇ろに弔わ
れているという。供養の五輪塔は敷地内だが、一般にも開放されている事
を後になって知った。(続)





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