簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

お六櫛(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-06 | Weblog

 「吹け波(ば)ふけ 櫛を買いたり 秋乃風」



 伊丹生れの俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫(おにつら)と言われた上島
鬼貫の句碑だ。貞享3(1686)年秋、東海道の旅の途中、ここに立ち寄
り「お六櫛」を買い求め、鈴鹿峠に向った時詠んだ句だと言う。

 碑の近くに扇屋伝承文化館があり、本家櫛所の看板を掲げているが、
「お六櫛」を商う商家だったらしい。



 中山道は妻籠宿の旅籠の娘・お六は、持病の頭痛を治したいと、旅人
の教え通り御嶽大権現に願掛けをした。すると「ミネバリという木で櫛
を造り、朝夕これで髪を梳かせば治る」とのお告げを聞いた。
お六は早速言われたとおりにすると、たちまち病は治ってしまった。
以後櫛は「お六櫛」と呼ばれ、木曽の名産品として作られるようになった。



 「お六櫛」は、享保年間以降になると、中山道の薮原宿などで、旅の
土産として売られる様になる。今日では県知事指定伝統工芸品となり、
又文化庁の日本遺産の指定も受けている。
 カバノキ科の固くて粘りのあるミネバリやイスを原料に、僅か10㎝に
も満たない幅に、凡100本もの歯を挽くと言う小さな櫛である。



 櫛が土山にもたらされた経緯が説明されている。
「江戸は元禄の頃、伊勢参りを終えて当地に立寄った信濃国の職人が、
重い病を罹った。見かねた村人は、民家で手厚い看病をすると、幸い
一命を取り留め、無事京に向けて旅立つ事が出来た。
職人はそのお礼として櫛の製法を伝えた」という。



 こうしてお六櫛は土山宿生里野村の名物となり、最盛期には十軒余の
業者が櫛に関わっていたらしい。
 街道筋には「お六櫛商」を名乗る家号札も見られるが、家業としては
全て廃ったというから残念だ。(続)





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右京都へ十五里(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-04 | Weblog

 土山宿は、東海道49番目の宿場で、東の田村川板橋から西の松尾川
(野洲川)まで、北土山と南土山で構成され、長さは二十二町五十五間
(約2.5km)にも及んだ。
天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると宿内家数は351軒、うち
本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠は44軒あった。



 宿場は昔ながらの古い家も多く、重厚な黒瓦葺切り妻造り、連子格子
の町屋風の家屋が、平入りで立ち並んでいる。
軒瓦の上には鳩や鯉などの細工瓦も飾られている。
余り広くない通りに面し、粋な板塀を巡らし見越しの松の屋敷等も有り、
宿場町らしい見応えのある静かな佇まいを見せている。



 明治23(1890)年2月、関西本線の前身の関西鉄道が三雲と柘植駅
間で先行開業した。南の平安時代初期の東海道のルートである、加太
越え道をなぞるように敷設されたのである。同年12月には四日市まで
延伸開業したが、旧宿場町の土山に鉄道が通ることはなかった。



 このように明治に入り、鉄道や新しい国道が宿場から遠く離れた所に
通され、その煽りで旧宿場町が賑わいを失い、活気のない町並に落ちぶ
れてしまう。そんな宿場をこれまで多く見てきた。



 しかしその分開発からは取り残され、結果的に狭い道に、昔ながらの
家並みが残され、古の面影を今に伝える町もある。
中にはこれを観光資源とし、新たな活路を見出したl旧宿場町もある。



 宿内を暫く進むと左手に小さな祠があり、道中安全を見守っているの
であろうか、二体の地蔵尊が安置されていた。
その傍らには真新しい道標が建っている。
「従是 右京都へ十五里 左江戸へ百十里」「東海道近江国土山宿生里野」(続)





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土山宿(東海道歩き旅・近江の国)

2023-12-01 | Weblog


 平安時代初期の東海道は土山の南方、杣川(そまがわ)沿いに東進し
柘植を通っていた。その先で加太峠を越える所謂、加太越え道である。
 その後の仁和2(886)年に、鈴鹿峠を越えて伊勢に向かう阿須波道
(あすはみち)が開かれた。
これにより土山にも街道が通り、やがて宿場が設けられることになる。



 「土山といへ共山なし 昔此所の郡主の姓也」

 こう言われるように、鈴鹿山脈の西麓ではあるが、土山には土山とい
う山はない。地名は中世、土山氏がこの地を治めた事に由来している。
土山氏は甲賀の地侍、53家の一つで、これらは後に甲賀流忍術の中心と
なる家柄である。



 前宿・坂下からはその距離凡そ二里半(9.8㎞)、難所「鈴鹿峠」を越
えた宿場だけに、その規模は相当なものであった。また宿場の西には、
北国多賀街道(御代参街道)の追分けもあり、多くの旅人で賑わった。

 ここは中世以降、商業の発達に連れ、物流が盛んになり、徒歩で荷物を
運ぶ「足子集団」や、馬の背に荷物を載せて運ぶ「馬借集団」が発生し、
古くから交通の要衝として知られていた。



 「道の駅 あいの土山」を出て、カラー舗装された通りを道なりに進
むと、突き当りに小公園があり、宿場町の地図と案内板が立っている。
そこを右折し、暫くは土山茶の畑の拡がる長閑な道を行く。
それも直ぐに尽き道幅がやや狭くなり、「東海道土山宿」の石柱が見え
ると、やがて家並みの連なる宿内へと入っていく。



 人口は男760人、女745人で、多くの宿場ではこの時代、女性人口が上
回っていたが、ここでは男の方が僅かに多かった。
峠越えを控え、体力温存で宿をとる旅人も多く、遊び惚ける訳にはいか
なかったのか、ここには飯盛り女はいなかった。(続)





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