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茨田(まんだ) 堤の碑  (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-04 | Weblog


 光善寺を後に、趣のある古民家等が散見される細い旧道を抜けていく。
集落の中で南から西向きに進路を変え、幹線用水路を越えると、堤防下
に軒を揃える出口6丁目を通りそのまま淀川の堤防道へと上がっていく。



 その道は車輌乗り入れは禁止で、自転車・歩行者専用道らしく、散歩
やサイクリングを楽しむ人々が頻りに行交っている。

 堤防の下は広大な河川敷に拡がる「淀川河川公園」で、先には淀川が悠
然と流れ下っている筈だが、ここからは望むことは出来ない。
公園は出入り自由かと思ったが、使用時間が決められているらしく、所々
にゲートが設けられている。



 土手の上を暫く行くと、左側に茨田(まんだ) 堤碑が建っていた。
説明板によると、「日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇十一年とあり、
これは河川堤として本邦最初のもの」と有るが、堤防の位置は諸説有り、
未だによく解っていないらしい。



 堤の築造は難工事で、二ヵ所の「絶間(たえま)」という場所に人柱
を出すことになり、武蔵の人・強頸(こわくび)と河内の人・茨田連衫
子(まむたのむらじころもこ)の二人が生贄として選ばれた。



 強頸はそのまま人柱の犠牲となったが、衫子はこれを沈ませられれば
人柱になろうと「ひょうたん」を投げる機転をきかせて助かったという
伝説が残っている。 



 碑には、「当時淀川は水量も多く、平流れに広い土地を河道としてい
たが、それを二流に分けこの間に農地を確保したのが茨田堤(中略)」
と有り、最後に「土佐日記でいう「わたの泊りの分れの所」もこの地
点としてよいだろう。」と書かれている。(続)

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