藤戸の町中を流れる倉敷川に、赤い欄干の印象的な橋が架けられている。
嘗てこの辺りは海で、古くから干拓として新田開発され、川は運河の役割
りを果たしていた。
その為ここ藤戸と対岸の天城の間は、徒渡りや舟渡しが行われていた。
最初の橋は正保4(1647)年の架橋で、木橋は「藤戸大橋・小橋」と
呼ばれた。
以来当地は、四国往来の要衝、金毘羅・由加山両参りの参詣道として、
また倉敷川の川湊としても栄えることになる。
そんな名残の、瑜伽大権現の常夜灯が橋の袂には残されている。
後に永代橋が架かるのは、大正15(1926)年の事だ。
当時はまだ舟運が盛んで、支障が無いように無橋脚のトラスドランガー
橋が架けられた。
橋の名は源平藤戸合戦で先陣の名声を上げ、平家を屋島に追いやった
源氏の猛将・佐々木盛綱に因み、時の県知事・佐上信一により「盛綱橋」
と命名された。
幾星霜の風雪に耐えた橋も老朽が進み、昭和のモータリゼーションの
時代が訪れると車が増え大型バスが行き交うには手狭となる。
加えて、重量制限6トンではさすがに心許なく、橋は架け替えられるこ
とになる。
平成元(1989)年に、総工費1億円余りを投じて、赤い欄干の二代目の
「盛綱橋」が完成した。
橋には藤戸合戦の歴史を後世に伝えんと、盛綱が藤戸海峡を渡る馬上姿
の銅像が飾られた。
欄干の四隅には、戦の様子を描いた銅板も飾られている。
馬を踊らせ、藤戸海峡を渡り、その名を歴史に留めた盛綱は、後に戦
功として備前国児島の地を領する事になる。
その盛綱も戦を巡る幾多の恩讐を超え、今では橋にその名を留め、町民
からも愛され続けているという。(続)
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嘗てこの辺りは海で、古くから干拓として新田開発され、川は運河の役割
りを果たしていた。
その為ここ藤戸と対岸の天城の間は、徒渡りや舟渡しが行われていた。
最初の橋は正保4(1647)年の架橋で、木橋は「藤戸大橋・小橋」と
呼ばれた。
以来当地は、四国往来の要衝、金毘羅・由加山両参りの参詣道として、
また倉敷川の川湊としても栄えることになる。
そんな名残の、瑜伽大権現の常夜灯が橋の袂には残されている。
後に永代橋が架かるのは、大正15(1926)年の事だ。
当時はまだ舟運が盛んで、支障が無いように無橋脚のトラスドランガー
橋が架けられた。
橋の名は源平藤戸合戦で先陣の名声を上げ、平家を屋島に追いやった
源氏の猛将・佐々木盛綱に因み、時の県知事・佐上信一により「盛綱橋」
と命名された。
幾星霜の風雪に耐えた橋も老朽が進み、昭和のモータリゼーションの
時代が訪れると車が増え大型バスが行き交うには手狭となる。
加えて、重量制限6トンではさすがに心許なく、橋は架け替えられるこ
とになる。
平成元(1989)年に、総工費1億円余りを投じて、赤い欄干の二代目の
「盛綱橋」が完成した。
橋には藤戸合戦の歴史を後世に伝えんと、盛綱が藤戸海峡を渡る馬上姿
の銅像が飾られた。
欄干の四隅には、戦の様子を描いた銅板も飾られている。
馬を踊らせ、藤戸海峡を渡り、その名を歴史に留めた盛綱は、後に戦
功として備前国児島の地を領する事になる。
その盛綱も戦を巡る幾多の恩讐を超え、今では橋にその名を留め、町民
からも愛され続けているという。(続)
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