簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

文人墨客が愛した鳴海潟 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-27 | Weblog
 「此所、古は海近く鳴海潟を見渡して往来して、塩の満ちる時は右の
方上野という野を行き通いけるとぞ。浜辺を宵月の浜、又は呼続の浜と
も言う。夜寒里、星崎、松風の里、皆並びて浦伝いなる、」
(東海木曽両道道中懐宝図鑑)



 中世の頃の鳴海一帯は、これより更に北まで深く伊勢湾が入り込み、
海に面した湊町として開け、鳴海も宮も潮待ちの宿と呼ばれていた。
又古くから数々の歌にも歌われた、風光明媚な鳴海潟が知られていた。



 昔から伊勢湾は、潮の干満の差が大きい事が知られていて、干潮時に
はそこに広大な干潟が形成される。
中世の東海道は、潮の干満を見定めて人も馬も干潟を渡っていたようだ。
干潟を歩くには、干満の時刻を知る必要があり、旅人は鳴海や宮の宿で
情報を得て潮待ちなどをしていたようだ。



 その頃はまだまだ庶民の多くが行き来をする時代でも無く、旅人の多く
は公用の武官か、風流を求める文人墨客などで有ろう。
浜千鳥の群れ飛ぶ姿、塩焼きの釜で働く浜子の様子を眺めながら、潮風を
受け優雅に酒を酌み交わし、詩を読み、気長に潮の引くのを待っていた。



 鳴海宿の西の入口、丹下町にも立派な常夜灯が残されている。
寛政4(1792)年の設置と言うから、東入口の物より14年ほど早く建て
られている。
こちらも秋葉大権現に安全と火災厄除を祈願した物だが、東入口にはな
い伝馬の馬方衆の安全を祈願しているところが面白い。



 この辺りの右手、住宅地の奥に見えるのが乙子山らしい。
ここには当地の氏神様が鎮座している。
日本武尊を祭神とする成海神社である。(続)





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