この地の押領使・漆間時国と母・秦氏の君清刀自夫婦の待望の子として生ま
れたのは、長承2(1133)年4月7日の事である。
穏やかに成長を願い、勢至丸と名付けられた若は、後の法然上人だ。
漆間家の屋敷跡が今日の誕生寺で有る。
救済の折り館が夜襲を受け、勢至丸も小弓を持って応戦し、見事に敵将の
右目を射たが、父は再起不能な重傷を負ってしまう。
父は臨終に際し「仇として追うな人として真の生き方を求めよ」と遺言した。
父を亡くした、勢至丸は母の弟が住職を務める菩提寺に入り、その後比叡山
に登り修行を積み、後に浄土宗を開宗する。
上人が幼少期を過ごしたのがこの地で、出家に旅立つ様子を表す銅像が、
境内に建てられている。その近くに聳え立つ公孫樹は、「逆木の公孫樹」と
呼ばれ、誕生寺に伝わる七不思議の一つとされる上人所縁の銘木である。
上人が15歳の登叡の折り、那岐の菩提寺より頂いた銀杏の杖をこの地にさし
たところ正着繁茂したもので根が上に伸びてくる木だという。
本堂及び山門は国の重要文化財の指定を受けている。
また境内には法然上人産湯の井戸が有り、奥を流れる片目川は、勢至丸の小
弓で射られた武将がその傷を洗ったとされる場所で、以後この川では片目の
魚が出現すると言う。
その川に架かる無垢橋は、木橋の材料をそっくり石に置き換えて造られた、
長さ7mの珍しい石造り方丈橋で有る。
また境内にある宝物館には、江戸の振袖火事として知られ、鈴ヶ森で処刑
された八百屋お七の振り袖が大切に残されていて、代々供養が続けられてい
るという。(続)
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