簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

清水の次郎長 (東海道歩き旅・駿河の国)

2020-03-23 | Weblog
 追分けの角に、軒下から赤い大暖簾を下げた、元禄8年の創業と言う
老舗「追分羊羹」の店が有る。

 「一人分の小さな物は」と尋ねると、「試食用でよろしければ、あち
らに」と店員が言う。
有りがたく頂いたものの、さすがにそれだけで済ませることも出来ず、
一口羊かんと一口栗入り羊かんを買い求めた。



 竹の皮に餡を包み蒸しあげた昔ながらの蒸羊羹で、封を切ると甘い
餡子の匂いと共に微かに竹の香を感じる。
清水茶を頂きながら、一口含むと歯ごたえの有るあるもっちりとした
羊羹で、程よい甘さが心地いい。食べる時手が汚れるので、小さなお
手拭きが同梱されているが、その老舗の配慮がなんとも心憎い。



 店の近くの街道に都田吉兵衛(通称・都鳥)の供養塔が建っている。
この地を縄張りとする清水の次郎長一家が、フグ中毒で寝込んだと聞き
知った都鳥一家9人が、この機に襲わんと清水にやってきた。



 丁度そこに居合わせたのが次郎長の子分の追分けの三五郎である。
彼の注進でそれをいち早く知った次郎長は、追分の地で酒を飲んで休んで
いる都鳥一家を奇襲し、先にだまし討ちされた子分・森の石松の無念をも
晴らしたのである。

 思わぬ最期を遂げた都鳥を、次郎長を憚ってか、誰も弔う人が居ない。
手を合わせる人も稀なことを哀れんだ里人が、慰霊のために建立したの
がこの塔だと言う。



 次郎長は晩年には渡世人稼業から足を洗い、汽船宿・末広を経営し、
英語塾を開設、富士の裾野の開墾や清水港の近代化にも貢献し、政府
要人との関りも多かったそうだ。


 
 明治26年74歳で波乱万丈の生涯を閉じたが、葬儀には千人に余る会
葬者で盛儀となった。港近くの商店街には生家も残されていて、町内
の梅蔭寺には妻や子分と共に眠る墓が有る。(続)






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