かつてはこの望嶽亭の先から左に取り、海岸に降りるのが街道筋で
有ったと言う。その地は急峻な薩田山の山塊が急激に海に落ちこみ、
海岸線には平地がほとんどない岫崎(くきがさき)と言われる厳しい
地で、親知らず子知らずとの異名をとる東海道一の難所であった。
当時の旅人は干潮を見計らい、砂交じりの波しぶきが吹き付ける中、
波が引き次の波が寄せる間を縫って駆ける、それは周りの人に気を掛け
る余裕もない、命がけの通り抜けで有ったようだ。
そんな難儀を解消する為、峠を越える中道が明暦年間(1655)に、更に
山の向こうを回る上道も天和年間(1682)に整備され、旅人は海岸を行
く下道から解放された。
ミカンやビワの畑に挟まれ道を登っていく。
由比の交流館で女性の職員が、「車で峠に向かう観光客には進められ
ない道」と言っていた事情が良く解る。道は曲りくねっているうえ、
狭く行き違いもままならない箇所が多い。
その上急勾配とあってはなれない観光客では危険と言うことだ、せい
ぜい畑仕事の軽トラックしか行き来のない道なので、安心して歩ける
のはありがたい。
所々で視界が開けるが、そこでは敢て見ないように目を背け、ひた
すら峠を目指す。上り始めて凡そ1時間峠に到着した。
振り返れば眼下に広がる太平洋、そこに迫り出し、縺れるように伸び
る道路と鉄道。
目をその先に転じれば、黒い山塊の上に秀麗な富士の山が見える・・・
筈だが残念ながら厚い雲に覆われてその姿はない。
それでもここには、広重の描く雄大な景観そのものの大パノラマが広が
っている。(続)
こちらも見てね
にほんブログ村
有ったと言う。その地は急峻な薩田山の山塊が急激に海に落ちこみ、
海岸線には平地がほとんどない岫崎(くきがさき)と言われる厳しい
地で、親知らず子知らずとの異名をとる東海道一の難所であった。
当時の旅人は干潮を見計らい、砂交じりの波しぶきが吹き付ける中、
波が引き次の波が寄せる間を縫って駆ける、それは周りの人に気を掛け
る余裕もない、命がけの通り抜けで有ったようだ。
そんな難儀を解消する為、峠を越える中道が明暦年間(1655)に、更に
山の向こうを回る上道も天和年間(1682)に整備され、旅人は海岸を行
く下道から解放された。
ミカンやビワの畑に挟まれ道を登っていく。
由比の交流館で女性の職員が、「車で峠に向かう観光客には進められ
ない道」と言っていた事情が良く解る。道は曲りくねっているうえ、
狭く行き違いもままならない箇所が多い。
その上急勾配とあってはなれない観光客では危険と言うことだ、せい
ぜい畑仕事の軽トラックしか行き来のない道なので、安心して歩ける
のはありがたい。
所々で視界が開けるが、そこでは敢て見ないように目を背け、ひた
すら峠を目指す。上り始めて凡そ1時間峠に到着した。
振り返れば眼下に広がる太平洋、そこに迫り出し、縺れるように伸び
る道路と鉄道。
目をその先に転じれば、黒い山塊の上に秀麗な富士の山が見える・・・
筈だが残念ながら厚い雲に覆われてその姿はない。
それでもここには、広重の描く雄大な景観そのものの大パノラマが広が
っている。(続)
こちらも見てね
にほんブログ村