名松線の終着駅・伊勢奥津駅を出て、緩い坂道を100mほど下ると、細い街道に
行き当たる。
これは大和と伊勢神宮を結ぶ伊勢参宮道で「伊勢本街道」と言われる道だ。


古くからお伊勢参りは庶民の強い憧れであったようで、江戸時代には最も人気の
高い観光地はお伊勢さんだと言われている。
「講」をつくり、皆で貯金をしてそれを元手に代表者がお参りする代参は当たりまえ
のように行われていたらしい。

十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」では、弥次さん・喜多さんは東海道を四日市の
追分で別れ、「伊勢街道」と呼ばれるルートで伊勢を目指している。
当時伊勢を目指す街道は幾筋も整備されていたようだ。

「伊勢本街道」もそのルートの一つで、奈良から伊勢に向かう最短コースであった。
猿沢の池を出発し榛原、多気、津留、田丸などを経て伊勢の山田に至る129キロの
街道だ。ここ奥津は、その街道の宿場町として栄えたところでもある。

しかし最短であるがゆえここは厳しい山道が多く、人々はそんな難渋を避け、遠
回りにはなるが平たんな名張から松坂に抜ける伊勢北街道(青超之道)を行くよう
になり、この街道はいつしか衰退の道を歩んでしまったそうだ。

しかし近頃では奈良大学が「実践歴史学」の一環として、学生を中心に昔の「講」
を組み、本街道を歩いて伊勢に向かう活動を行ってきたことがテレビや新聞などで
も話題に取り上げられたことが有ったが、そんなことなどが有って街道は再び脚光
を浴びるようにもなっているらしい。(続)

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行き当たる。
これは大和と伊勢神宮を結ぶ伊勢参宮道で「伊勢本街道」と言われる道だ。


古くからお伊勢参りは庶民の強い憧れであったようで、江戸時代には最も人気の
高い観光地はお伊勢さんだと言われている。
「講」をつくり、皆で貯金をしてそれを元手に代表者がお参りする代参は当たりまえ
のように行われていたらしい。

十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」では、弥次さん・喜多さんは東海道を四日市の
追分で別れ、「伊勢街道」と呼ばれるルートで伊勢を目指している。
当時伊勢を目指す街道は幾筋も整備されていたようだ。

「伊勢本街道」もそのルートの一つで、奈良から伊勢に向かう最短コースであった。
猿沢の池を出発し榛原、多気、津留、田丸などを経て伊勢の山田に至る129キロの
街道だ。ここ奥津は、その街道の宿場町として栄えたところでもある。

しかし最短であるがゆえここは厳しい山道が多く、人々はそんな難渋を避け、遠
回りにはなるが平たんな名張から松坂に抜ける伊勢北街道(青超之道)を行くよう
になり、この街道はいつしか衰退の道を歩んでしまったそうだ。

しかし近頃では奈良大学が「実践歴史学」の一環として、学生を中心に昔の「講」
を組み、本街道を歩いて伊勢に向かう活動を行ってきたことがテレビや新聞などで
も話題に取り上げられたことが有ったが、そんなことなどが有って街道は再び脚光
を浴びるようにもなっているらしい。(続)

