十辺舎一九の東海道中膝栗毛では、弥次さん喜多さんは四日市の日永追分で
東海道を離れ、伊勢街道を神戸、白子、上野、津、雲津、松坂、小俣と宿場を辿り、
ようやく山田にやってきて念願の伊勢神宮への参拝を済ませている。
江戸時代の庶民にとっての「お伊勢さん」への参拝は、「お陰参り」が大流行した
とは言え、一生に一度とてない重大事であった。
この親しみを込めた「お伊勢さん」という愛称も、丁度この頃に定着したと言われて
いるが、庶民にとっては実際の参拝ともなると憧れ以外の何物でもなかった。
何せ東海道の起点、江戸日本橋から四日市・日永の追分までは100里以上(約
410Km)ここで伊勢街道に入ってからも凡そ18里(約70Km)の道のりが待っている。
如何に当時の人々が健脚とは言え、1000キロにも及ぶ行き来となれば、一か月
を要する長旅となり、その費えともなると並大抵のものではない。
それでも当時は、乏しい中生活費を削り皆でコツコツと銭を積み立てて、講の代
表に、或いはかわいい我が子にやっとの思いで何とか代参旅を願い、その土産話
でようやく行ったような気になった・・・ようである。
伊勢神宮へのアクセスは、かつては国道1号線(東京~伊勢、現在は四日市~
伊勢は国道23号線)であり、今では伊勢自動車道であり、JR参宮線であり、近鉄
山田線などが何れも神宮の近くまで向いていて、当時に比べれば雲泥の差である。
便利になり、気軽にお参りが出来るようになったとはいえ、それでも日本人にとっ
ての「お伊勢さん参り」は、一度は行きたい何か特別な存在である。(続)
にほんブログ村
東海道を離れ、伊勢街道を神戸、白子、上野、津、雲津、松坂、小俣と宿場を辿り、
ようやく山田にやってきて念願の伊勢神宮への参拝を済ませている。
江戸時代の庶民にとっての「お伊勢さん」への参拝は、「お陰参り」が大流行した
とは言え、一生に一度とてない重大事であった。
この親しみを込めた「お伊勢さん」という愛称も、丁度この頃に定着したと言われて
いるが、庶民にとっては実際の参拝ともなると憧れ以外の何物でもなかった。
何せ東海道の起点、江戸日本橋から四日市・日永の追分までは100里以上(約
410Km)ここで伊勢街道に入ってからも凡そ18里(約70Km)の道のりが待っている。
如何に当時の人々が健脚とは言え、1000キロにも及ぶ行き来となれば、一か月
を要する長旅となり、その費えともなると並大抵のものではない。
それでも当時は、乏しい中生活費を削り皆でコツコツと銭を積み立てて、講の代
表に、或いはかわいい我が子にやっとの思いで何とか代参旅を願い、その土産話
でようやく行ったような気になった・・・ようである。
伊勢神宮へのアクセスは、かつては国道1号線(東京~伊勢、現在は四日市~
伊勢は国道23号線)であり、今では伊勢自動車道であり、JR参宮線であり、近鉄
山田線などが何れも神宮の近くまで向いていて、当時に比べれば雲泥の差である。
便利になり、気軽にお参りが出来るようになったとはいえ、それでも日本人にとっ
ての「お伊勢さん参り」は、一度は行きたい何か特別な存在である。(続)
にほんブログ村