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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

宝暦の治水(JR乗り潰しの旅・関西本線)

2017-01-11 | Weblog
 宝暦四年一月、総奉行・平田勒負(ひらたゆきえ)を初めとする薩摩藩士947名
は美濃の地に派遣されることに成る。
工事区域は、三川の河口域から上流に向けた数十キロの広範に渡った。



 とにかく水の勢いの強いところで、工事は難渋を極めた。
過酷な飯場は、自然と闘う凄惨な消耗戦となり、人柱まで立てて、ようや完成した
と言われるほどに困難を極めることに成る。



 中でも最大の難工事は、木曽川と伊尾川(揖斐川)の流れを分離する「油島千間
堤」で、ここでは多くの犠牲者を出した。
慣れぬ地で疫病に倒れ、望郷の念を抱きつつ朽ち果てる藩士も多数出た。



 藩士を事故や病で亡くし、藩に多額の借財を残した責任、度重なる設計変更や
工事費の増額など、幕府の不条理な対応への義憤。
それらを決着させ、鎮魂の思いを込めた平田勒負は、労苦を共にしながら、半ば
で逝った多くの藩士と共にかの地に眠ることを決意、終には自裁するのである。



 しかし、その死すら「持病による病死」と届けられている。
当時割腹は、「お家断に処す」と定められていたから、身を呈した抗議も幕府に伝え
られることが無かったのだ。
宝暦五年六月、島津藩主・薩摩守重年は、幕府に請負普請の完成を届け出ている。


 
 出来栄検分を終えた背割り堤約1Kmには、勒負らにより薩摩から取り寄せられ
た日向黒松が植えられた。
今その場所は「油島千本松原」と名付けられ国の史跡に指定され、その北端には
勒負を祭神とする「治水神社」が祀られている。



 堤防道路を行くかう車の幾人のドライバーが、こんな凄惨な史実を知っているので
あろうか。薩摩義士の偉業はもっと広く世に知られて良い筈だ。(続)



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