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装飾古墳で有名なキトラ古墳の模型
飛鳥資料館展示
飛鳥資料館展示
高松塚古墳と並んで装飾壁画で有名なキトラ古墳は、現在公園整備中で見学できないようでした。高松塚古墳の壁画もそうですが、どのみち本物を見ることは不可能で、明日香村の奈良資料館や埋蔵文化財展示室などにレプリカや写真などが展示されており、至近距離で見られるようになっています。 橿原市を出て国道24号線を北上していくと、右手に面白い屋根の建物が見えます。その一体は、田原本町の唐古と鍵という地区で発掘された、弥生時代の環濠集落遺跡が広がっていて、建物は、発掘された絵画土器の楼閣を復元イメージして建てられたものでした。
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唐古・鍵遺跡から出土した土器破片
天皇は、多遅摩毛理(たじまもり)という名の者を常世の国に遣わして、季節のない香りのよい木の実を求めさせた。多遅摩毛理は、やっとその国に着いて、その木の実を取って、葉のついているのを八本、葉のないのを八本、持って帰って来たのに、天皇はすでに亡くなっておられた。(中略) 多遅摩毛理は、その木の実を手に捧げて、「常世の国の季節のない香りのよい木の実を、いま持ち帰って来たのでございます」と言って泣き叫んで、ついには死んでしまった。―という話が載っています。『日本書紀』では、田道間守(たじまもり)という表記で、
(前略)田道間守は泣きなげいていった。「命をうけたまわって遠く遥かな国に行き、万里の浪を越えて帰ってきました。この常世国は、神仙の秘密の国で、俗人の行ける所ではありません。そのため行ってくるのに十年も経ちました。本土に再び戻れるとは思いもかけなかったことです。しかし聖帝の神霊の加護により、やっと帰ることができました。今、天皇がすでになく、復命することもできません。手前は生きていても何のためになりましょうか」と。
天皇の陵にお参りし、泣き叫んで死んだ。群臣はこれを聞いて皆、泣いた。
と、『古事記』よりも感動的な物語になっています。
その田道間守の墓が、垂仁天皇陵の周濠の中にある小さな島だというのです。「田道間守」という唱歌もあるようです。また、持ち帰った果実は「橘」ですが、現代ではお菓子の神様として祀られているみたいです。
可哀想な忠臣・田道間守…でも天皇のおそばで眠れてよかったですね。と思っていましたが、その後平城京資料館で聞いた説明に、愕然となってしまうのでした。
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