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a trip to ancient Izumo 5

2017-06-04 | trip
左区画が銅剣、右区画が銅鐸と銅矛が埋納された場所
 
 古代史関係の番組に、必ず映し出されるのが「荒神谷遺跡」。銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本という出土数の多さもさることながら、銅鐸と銅矛が一緒に埋納されていた例は全国初。その現場を見られるワクワク感に心躍らせて、車を走らせました。
 出雲ロマン街道を東へ向かい、結構な山間部に入った所に荒神谷史跡公園の看板が見えました。荒神谷博物館と遺跡へ行くには、この看板から曲がります。少し走ると右側に博物館が見えたので、建物正面の駐車場に車を入れました。
   
 先に博物館を見学しました。入館料は無料ですが、展示室は有料です。加茂岩倉ガイダンスよりは広いですが、弥生の森博物館よりはこじんまりした展示室には、銅鐸や銅剣などがどうやって製造されたのかを再現した鋳型が展示されていました。これらの青銅器が造られた工房跡は、付近では見つかっていないそうですが、銅剣は全て100年代半ばに造られた同型で、完成後まもなく埋納されたということです。
う~ん何のために?博物館を出て、遺跡発掘現場へ向かいました。
  
 園内の小路を奥へ歩くと、丘陵の斜面が四角く削られた場所が見えてきました。ついに!
…遺跡はまだ調査中ということで立ち入り禁止。木製階段を昇って行くと展望デッキがあり、そこから遺跡全体が見渡せました。
 青銅器の埋納として考えられているのが、
1)祭祀説 2)保管説 3)隠匿説:部外者から奪われないように隠した 4)廃棄説:青銅器の時代が終わった 5)境界埋納説:共同体間の境界意識の反映
 1~3はあり得そうです。ここで出土した銅鐸の高さは約23㎝という小ささで、他地域で見つかった銅鐸より旧い型(終息期の銅鐸は1mを超える)だけしかなく、銅剣に関しては青銅器の時代の終わりに大量に製造する必要性が感じられないので、4は無いと思います。5の境界意識(縄張り意識ってこと?)はよく解りません。私がなるほどと思ったのが、武光誠氏が『「古代日本」誕生の謎』第3章に書いてあった説です。
 銅剣は4列に整理されていますが、1列めは34本、2列めは111本、3列め120本、4列め93本の各列の本数が、『出雲国風土記』に記されている古代出雲の神社の数に対応する、というものです。1列めは意宇(おう)郡(67社)、2列めは島根・秋角(あいが)・楯縫の三郡(113社)、3列めは出雲郡(120社)、神門・飯石・仁多・大原の四郡(97社)、意宇郡は国衙があったために神社数が多く、他地域の豪族が建てた神社も含まれているためだといいます。確かに、意宇郡以外は『出雲国風土記』に伝わる神社数とほぼ一致します。
 このことから武光氏は「荒神谷遺跡は、出雲の諸豪族が銅剣祭祀を通じて一個のまとまりを作っていたことを物語る=出雲の豪族たちの団結を示す」と結んでいます。
 ヤマト政権の支配下に置かれる前の出雲王国は、『出雲国風土記』で神名火山=神の山とされる仏経山周辺を祭祀場、斐伊川の対岸を王家(もしくは首長)の埋葬地だったと考えると腑に落ちます。四隅突出型墳丘墓が造られるのは、青銅器が埋められた後です。

 
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