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奈良といえば、せんとくん。顔がデカい![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0209.gif)
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田道間守(たじまもり)のお墓がある垂仁天皇陵へは、唐招提寺方面からアプローチ出来なかったため、近鉄橿原線尼ヶ辻駅前の細い道路を走りました。既に奈良市に入っていますが、平城宮(京ではありません)を東に控えているせいか、都会という感じはしませんでした。しかし、大和西大寺駅の近くになると、さすがに現代に戻って来たなと実感しました。なんだが混雑した道路を北上し、超細い道を進むと、神功皇后陵こと五社神古墳の脇道に出ます。
佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群の1つで、巨大前方後円墳です。『古事記』には息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)の名で登場する女傑のお墓、是非見てみたいもののひとつでした。駐車スペースがないので、ちゃっと行って写真だけ撮りました。
この古墳の南に、成務天皇陵と垂仁天皇皇后(日葉酢媛ひはすひめ)陵が並んでおり、そこにちょっと食い込むように孝謙天皇(=称徳天皇)陵が横向きに配置されています。それぞれの御陵は、定かではありませんが(神功皇后は架空の人物の可能性大)いづれも初期ヤマト政権の王墓の可能性が高く、5世紀半ば頃までの古墳だそうです。
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この様子では、残りの小奈辺・宇和奈辺古墳は車でのアプローチは無理だろうと思い、諦めることにしました。しかし、翌日訪れた平城宮跡資料館のガイドさんにその話をしてみたところ、小奈辺古墳は車でぐるりと回れる道がある、と教えていただきました。
コナベ古墳は、明治時代、造幣局技師ウィリアム・ゴーランドというイギリス人によって実測されて海外に紹介された有名な古墳だそうで、勧められるままに行ってみました。ウワナベ古墳との間にある航空自衛隊基地の正門前から左折して、心許ない細い道を走ります。途中、車を止めるスペースがありましたが、写真を撮っても仕方がないと思ったので、造り出しなど確認しながら徐行して一周しました。巨大古墳は、空から見ないと全貌がつかめませんね。
平城宮跡資料館内で、平城京が造られる前からあった古墳、例えば垂仁天皇陵はどうしていたのでしょうか、などと話していた時に、垂仁天皇陵は江戸時代に形が変えられていて、田道間守のお墓は元々周濠の中にはなかったものを、濠を掘って今のような形にした、という事を教えられました。ああ、じゃああれは、別人の陪塚かもしれません。
江戸時代に形が変えられた古墳は、結構あるみたいです。江戸時代、水戸黄門が古墳の発掘調査したという話をテレビで見たことがあります。戦国時代には、古墳に陣場を造ったり削ったりしていたみたいですが、江戸時代に入ると「神武天皇陵を見つけようプロジェクト」みたいな事があって、治定した場所(古墳や塚)を御陵として整備したそうです。ですから、現在の神武天皇陵が王墓かどうかは、疑わしいとされています。
しかし、天武持統天皇陵のように、昔の調査が役に立っている例もあります。
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