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Ikku's“zoku hizakurige 8” part1

2011-08-23 | bookshelf
1800年代初期の名優:五代目岩井半四郎(女形)と五代目松本幸四郎。当時人気絶頂の脚本家四代目鶴屋南北(1755-1829年:1811年襲名)は彼らと組んで大ヒット作を産んだ。1815年上演『杜若艶色染(かきつばたいろもえぞめ)』の遊女八ツ橋役は半四郎の當役。本編での記述が正確なら『杜若』に幸四郎が出演していて、これも當役だったのだろう。五代幸四郎は「実悪」という悪党の役柄に定評があった。弥次さんも悪党なのでこれにあやかったのか。画像は初代歌川豊国画『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』1808年上演の半四郎&幸四郎。
***『続膝栗毛八編』上***
『従木曾路善光寺道 続膝栗毛八編』 十返舎一九(54歳)作 自画
1818年 文化15年/文政元年 双鶴堂鶴屋金助板 


自序
諏訪の湖波しづかに、風越の嶺をならさず。往来の旅人が命をからむ蔦かづらと詠しは昔にて、桟も今は渡るに難なく、於六櫛の歯をひくが如く熊の膽(い)の廻るにひとしき木曽路の賑わひ、寝覚の蕎麦うつに隙なく、福島の奇應丸*ひねるを待ず。弥生の茶店の蕨餅身を粉にはたくいそがしさは、金儲の昼飯どき、筑摩川の茶漬に、腹をこやして。おのがさまざまの出放題は、旅の恥をかき捨る釘のをれに、落書の国所もゆかしく。予一とせ此街道に杖をひきて、洗馬の駅より善光寺にいたるに、松本より糸魚川街道といふに出、栗尾松尾宮城などいへる霊場をへて、稲荷山に出たりし。其道路山川の風色、土人の光景、古雅なる事おかしき事、仮事して、袖に蔵(おさ)め帰りたりしを、有のままに此編の趣向とし、例の戯気(たはけ)をつくす事しかり。


 木曽路といえば、山高く連なり渓幽が続いて、鹿や猪が道に出てきたり、住んでいる男もむくつけき異国人のように思われるが、それは昔の事で、今は月の名所となって、寝覚の床には猪も見えず、桐原望月の駒も、助郷を勉める宿場も繁盛し、留女の化粧や容姿も優に艶っぽく、東海道と変わりません。しかし、食事面では少し事足りないが鶏卵はたくさんあります。
 弥次郎兵衛北八は、馬籠で知人からお金を借りたので元気が出て、本山宿を過ぎようと歩いていると、向こうから相州小田原のういろう売りがやって来ました。外郎は薬で、売り子は効能の口上をまくし立て、最後は早口言葉をしゃべっていました。それを見て、外郎を飲むと口が回るようになると勘違いした男が一粒買いました。弥次さんが、その男をからかいます。男が怒り出し、北さんが振り上げた手がその男の目のふちに当たって目を回してしまいました。飲んだ薬は大方目を回す薬だったんだろうと笑いながら2人は立ち去り、洗馬宿に至ります。ここで弥次さんは、背の高い男と小男の駕籠かきの駕籠に乗りました。
 景色のよいところで、芝居の道具建てのようなので、弥次さんは駕籠の中で芝居の物真似をしました。駕籠かきは2人を役者と勘違いしたので、弥次さんは図に乗って「名古屋でわずか30日公演して二百両儲けた。江戸の杜若の幸四郎は名古屋中大評判だったそうだ。おいらはその幸四郎の兄弟分で銅四郎という。」と駕籠かきを面白がらせるつもりで出鱈目を言いました。
 村井宿で駕籠をおろし、駕籠代と酒手(チップ)十二文ずつ、二十四文を支払うと、「30日で二百両稼ぐ旦那が酒手24文とは少ない」と役者というのにつけこみ駕籠かきがねだりごとを言いました。驚いた弥次さんは「そんな事を言うと本陣へ連れて行くぞ」と脅しますが、売り言葉に買い言葉、とうとう駕籠かきと取っ組み合いになりました。しかし、江戸っ子の勢いには敵わず、駕籠かきは逃げて行きました。
 弥次さんと北さんも早く発とうと茶代をはずんで出て行こうとすると、さっきの駕籠かきが戸板の上に乗せられ、雲助連中とやって来ました。一番人相の悪い雲助が「お前に殴られた仲間が怪我をして商売もできなくなったが、引き取り手もなく、相談して熨斗をつけて持って来た。どうとでも好きにしてくれ」と言って、向う鉢巻をしてふんぞり返って戸板に乗っている雲助を前に出します。さすがの弥次さんもぎょっとして困り果てていると、雲助どもは「よた者はあの衆へ渡したから酒でも呑むべい」と何か企んでいる様子。弱みを見せてはいけないと思った2人は、「アイお世話になりやした」とわざと無視して茶屋をでました。すると雲助たちが立ちふさがり、ひと悶着となります。見かねた茶屋の亭主が分け入り、仲裁しました。
 「芝居の話から、ほんの冗談でおれは役者だと言ったら本気にして、酒手をねだるから怒っただけた、おれのどこが役者に見える」と弥次さんが言うと、調子を合わせる北八と亭主が、弥次さんの顔や容姿をさんざんコケ下ろすので、弥次さんは少し躍起になるも、これで亭主が仲直りの盃をさせ、一件落着。2人は茶屋を出るとき亭主への礼金として二歩紙に包んで置いて、一礼して出て行きました。
  何事も堪忍五両さし引いて 弐歩とられたることのくやしさ
と詠んで大笑いしつつ、松本城下に至りました。
 賑やかな往来の茶屋に入って休んでいると、ここの亭主が「今、村井宿の茶屋で旅役者と雲助の諍いがあったと聞きましたが、知ってますか」と話しかけてきたので、弥次さんは見てきたと言って得意になって話します。すると他の客が弥次さんを指して、その役者はそいつだと言ったので、嘘がばれ、2人は足早に茶屋から立ち去りました。
 近在の医者らしい男が歩いていたので、善光寺への道を尋ねると、本街道ではない道(糸魚川街道。千国街道ともいう)を教えてくれたので、いくつかの霊場があるということでその道を行くこと決めました。医者は途中まで所用で行くと言うので、案内してもらいました。お城の大手の前を左の方へ行って野道になり、城山の麓を過ぎ犀川の岸つたいを熊村の橋を渡り、成相新田(なりあいしんでん)に出ました。
 宿場のはずれに侘しい茶屋があり、医者の宅か店のようで立ち寄りました。食事をしようと注文しますが、豆腐と菜しかありませんでした。菜が美味しかったのでおかわりしますが、その菜が焼場の傍の畑で灰をかけて育てていると聞いて、気持ちが悪くなり茶店を出ます。栗尾寺の一の木戸を過ぎ、むみょう橋(微妙橋のこと?満願寺参道にあり、越中立山の無明橋・高野山の無妙橋と共に日本三大霊橋)に着きました。

奥の屋根のある橋が微妙橋。一九もここを歩いたのでしょう。現在の橋は1906年建造。

隣りにちくしやう(畜生)橋というのもありました。無明橋は罪の或るものは懺悔しなければ渡れません。弥次郎と北八は何だかんだとくだらない悪事をお互い暴露しながら、無明橋を渡りました。ところが、医者は畜生橋を渡ります。理由を聞くと、この医者は自分の処方した薬を飲んで助かった人は一人もいないから、と言います。「本来お寺と医者は敵同士のはずが、この医者は人を殺すのでお寺には福の神だな」と弥次郎が冗談を言うと、医者も「自慢じゃないが、どこの寺へ行っても歓待される」と笑います。それから3人は、さいの河原法然堂を過ぎ、おしかの松という名木を見物しました。
『従木曽路善光寺道続膝栗毛八編』上 終


*奇應丸:小児の夜泣き疳の虫に江戸時代から使われている漢方生薬。福島宿に「高瀬奇應丸」の石碑が立っている。高瀬家は島崎藤村の姉の嫁ぎ先。西は奇應丸、東は救命丸といわれている。

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