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invitation to the books of the edo period 2

2012-07-09 | bookshelf

 『日本古典文学全集』より気軽に読めるのが、2011年に刊行された『「むだ」と「うがち」の江戸絵本』。全集にも載っている『金々先生~』と『江戸生艶気樺焼』の他、春町の『辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね)』、出版規制にひっかかって絶版となった『天下一面鏡梅鉢』唐来参和(とうらいさんな)著、そして当時の本の製作工程が一九の見事な画と面白可笑しいストーリーで学べる『的中地本問屋(あたりやしたぢほんどんや)』などが、注釈とわかりやすい説明付きで掲載されています。
 井上ひさし著『戯作者銘々伝』を読んだ後なら、恋川春町がどれだけ突飛なネタを思いつくセンスを持っていたのか、納得できるでしょう。特に『辞闘戦新根』は、当時の流行語を擬人化したもので、流行語たちが反乱を企てるのですが、これは現れては消えしていく流行語の特徴を巧く突いています。「言葉が闘う、というのは新しいことなのね」。最後の「ね」を加えたところもにくい。しかし、ここに出てくる江戸の流行語は、現代でいうおやじギャグそのものです。例えば「当てが外れた」という意味で使われる「とんだ茶釜」。語源は、鈴木春信の浮世絵に描かれた茶屋の看板娘・お仙を一目観ようと茶屋を訪れたが、すでにお仙はいなくて替わりに禿げ頭のオヤジが居たので、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」と言ったところから来ているんだとか。この手のギャグは弥次喜多もよく使っていて、「承知した」を人名風に「しょうちのすけ」と言ってたりします。黄表紙はおやじギャグの宝庫。
 唐来参和の『天下一面鏡梅鉢』は、朋誠堂喜三二作『文武二道萬石通(ぶんぶにどうまんごくどうし」や春町作『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』同様、松平定信の寛政の改革を穿ったもので、絶版になりましたが、実は唐来参和の署名が無くて、作者については疑問の余地があるのだそうです。
 馬琴の『八犬伝』や為永春水の『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』など長編小説を読んでみようかな、と思ったら、2010年刊行の『人情本事典』で予習できます。
 人情本のストーリーは、現代のお昼のメロドラマといった感じで、女性に人気があったそうです。本書は『春色梅児誉美』以前の人情本を扱っていて、興味深かったです。人情本は天保年間(1830~1844年)が最盛期の明治初期まで描かれていた風俗小説。家族構成や人間関係が入り組んでいるところに、義理や人情が絡み合い、泣きや不条理などあって最後は丸く収まるという構成になってます。驚いたのは、人情本の先駆者が十返舎一九だったという指摘でした。どんなジャンルも手を出した一九先輩、さすが…と感心したら、当人に人情本を書いているという自覚は無かったそうです。
 この本には、作者・画工・板元・出版年が明記してあり梗概(要約)が書いてあるので、81種の話が収録されています。全巻揃わないものもあったり、個人の蔵書を提供してもらったりしているので、どんな物語なのか内容がわかるだけでも有難いです。
 『戯作者銘々伝』にも登場する、鼻山人(東里山人)や「松亭金水」に出てくる為永春水が春水と号する前の南仙笑楚満人の作も載ってます。また、墨川亭雪麿の作もありました。この人は、勝手に一九先輩の小伝を書いて、一九の逆鱗に触れた人物です。
 「木曾海道六拾九次内」を請け負った(途中から広重が描く)渓斎英泉が、人情本の挿絵の多くを担当していたという事実も知り得ました。戯作者が東里山人(鼻山人)で挿絵担当が渓斎英泉という『珠散袖(たまちるそで)』(1821年文政4年刊行)という本があり、広重24歳、東里山人より7歳下ですが、売れない画工時代から親交があったとかいうのを記憶してますが(確かではありません)、1833年の東海道五十三次が売れてからの人気の移り変わりが想像できて、感慨深かったです。
 藤沢周平氏が、売れっ子になった広重が木曾海道を引き受けるまでの物語を書いていましたが、そこには何故版元の保永堂が広重でなく英泉に依頼したのかということが書いてありませんでした。その謎もこれで解けました。人情本の挿絵として英泉の浮世絵は当時絶大な人気を誇っていたのです。保永堂が人気絵師に依頼したのも道理でした。ただし英泉は婀娜な女の絵を得意としていて、風景画は上手くなかったので、保永堂は人選ミスをしたのでした。


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