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the connection between Aska and Scythian

2017-05-22 | bookshelf
ウクライナにあるスキタイ人の石像
明日香村の猿石とそっくり

 明日香村にある石造物の謎について少し調べてみました。すぐ目についたのが、講談社学術文庫の『興亡の世界史』シリーズの表紙でした。なんと、吉備姫王墓内に置いてある猿石にそっくりではありませんか。見た瞬間、ゾロアスター教をユーラシアに広めたソグド人の石像かと思ったのですが、違いました。表紙の石像はスキタイ人の石像だということです。
 スキタイ人はソグド人と同じ遊牧民ですが、ソグド人は交易の民でスキタイ人は騎馬遊牧民。また、ソグド人はソグディアナ(現ウズベキスタンとタジキスタンの一部)を中心として中央~東アジア、スキタイは現ウクライナを中心とした西アジアが勢力範囲だったようで、スキタイ人=ソグド人ではありません(両者とも同じコーカソイドでアーリア人=インド・ヨーロッパ語族ですが)。活躍した時代も若干差があり、スキタイは8B.C.~3B.C.なのに対しソグド人は4B.C.あたりから活発に活動してきたそうです。
 ウクライナの遺跡には、このような人型石像が点在してあり、その下は墓になっていたそうです。とすると石像は埋葬された人の生前の姿を模した物なのでしょうか?この本を読んだ上では、何ともわからないようです。しかし、スキタイ人の石像とそっくりな明日香村の猿石は、古代日本の飛鳥時代にスキタイ人が来ていた(もしかしたら埋葬された?)証拠なのではないでしょうか。ウクライナからシベリアの辺りまで、スキタイの古墳も多数発見されていて、その古墳は日本の古墳に似ています。
 ただ、個人的には明日香村の猿石は、スキタイ人ではなくソグド人のような気がします。
 ソグド人の風貌がよくわかる画像を見つけました。ソグド人は馬またはラクダに乗って移動していたので、袖や裾が体にぴったりした衣服を着て、ベルトを締めていました。そして(三角の形をした?)帽子を被り右手にはグラスを持ち、膨らんだ腹部・・・、服を脱がせばこちらの方が明日香村の猿石に似ています(グラスは持っていませんが)。お腹に両手を回しているのはスキタイの石像の定番ポーズですが、ひょっとしてスキタイが滅んで交易商人ソグド人と融合して、飛鳥に到達した頃には2つの文化が合体した状態だったのかもしれません。吉備姫王墓の猿石は、中へ入れないため背後を見ることができませんが、猿石の背には別のものが掘ってあります。↑画像の猿石の裏には別の顔を持つ人物が。二面石のような意味を持っているのでしょうか。
また、裏が鳥になっている石人像もあります。鳥といえばソグド人の信仰するゾロアスター教の鳥葬の鳥を想起します。異なる2つの要素を持たせる、というのもゾロアスター教の二元論に結びつきます。
 猿石が斉明天皇期(600年代中期)に造られたものならば、ソグド人たちはそれ以前から飛鳥に居たと考えられそうです。彼らが日本の記録に残っていないのは、商人として非公式に日本に渡って来たからなのかもしれません。
 今年1月、橿原考古学研究所の所長さんが「東アジアのソグド人」をテーマに講演をされ、『日本書紀』孝徳天皇期と斉明天皇期のトカラ国から来た人たちの中に、ソグド人が同行していた可能性を指摘されたそうです。この講演、拝聴したかったです。
 橿原市の益田岩船がゾロアスター教の拝火壇だとは思いませんが、飛鳥時代の石造物の謎を解く鍵は「ソグド人」ではないか、と思いました。そして、中央アジアのコーカソイドは弥生時代(縄文時代後期から?)に既に日本列島に侵入していたのでは・・・出雲を旅した後、そんなふうにも感じました。
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