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about Owari Edo literary exchanges recorded-4-final

2012-01-16 | bookshelf
『四編之綴足(とじたし)』 東花元成(とうかもとなり)著 北亭墨仙画
1815~16年刊行 美濃屋伊六 板
一九と弥次さん喜多さんが名古屋本町通で出会う画

 十返舎一九先輩となると、尾張を初めて訪問したのが何時か、何度足を運んだかは確かなことはわからないでしょう。最初といえば、小田切土佐守に付いて大坂へ赴任した時(1788年24歳)、名古屋で宿泊でもしていたでしょうし、武士を辞めて大坂から江戸へ戻る(1793or1794年30歳)途中、名古屋で遊んだかもしれません。(もっとも、武士を辞めた手前、郷里の駿府を通る東海道は避けて中山道を江戸へ向かったと考えられますが。)
 『東海道中膝栗毛』が大当たりして、大先生として名古屋で歓待されたのは、1805年文化2年41歳で伊勢参詣に行く途中でのことでした。この年の正月に新居宿~宮の宿(愛知県内の東海道)を書いた『東海道中膝栗毛四編』上下巻が発売された後だったので、地元の人々は一九の訪問に沸きかえったことでしょう。同様に、一九先輩も尾張の文人(狂歌仲間・戯作仲間など)のもてなしに大層感じ入ったようです。この時聞いた話を次の五編(桑名宿からスタート)のネタに使ったり、挿絵の自作狂歌に尾張の狂歌師の名前―椒牙亭田楽、蛙面水、南瓜蔓人、梧鳳舎潤嶺、楳古、彙斉時恭、灯台元暗、花林堂、右馬耳風、在雅亭ひかる―を使用したりとサービスしています。そして椒牙亭(しょうがてい)田楽という狂歌師が、戯作者・椒芽田楽(きのめのでんがく)=神谷剛甫(馬琴の門人、一九からお礼の年賀状をもらった藪医者)その人でしょう。
 とくれば、貸本屋大惣のお抱え作家だった剛甫が、一九先輩を大惣へ連れて行ったことは想像に難くないです。また、『江戸尾張文人交流録』に“五編が刊行された文化三年前後から名古屋周辺では地元作者による「膝栗毛」のパロディーが流行し始める”とあり、『名古屋見物四編の綴足』が紹介されていました。
 見出し↑の『四編之綴足』の「四編」とは、もちろん膝栗毛四編の追加の意味です。尾張を旅する弥次喜多が、本屋の主人2・3人と飲みに出かける一九と名古屋の本町通で出会い、一九の宿泊先・本町の駒庄へ泊まれと言われる件があるそうです。駒庄は名古屋城下玉屋町三丁目にあった駒屋庄次郎という実在の旅籠だそうです。『四編之綴足』を出版した板元・美濃屋伊六は本町通6丁目の書肆で永楽屋の近所。十丁目の松屋善兵衛とも懇意だったでしょう(玉屋町の界隈)。そして、挿絵を担当した浮世絵師・北亭墨仙は、1812年に名古屋へ来た北斎の世話をする墨僊(尾張藩士・牧助右衛門)です。著者の東花元成については不明でした。
 その後一九先輩は、1811年に伊勢太々講参りに出かけ大坂に逗留、1813年には播州(兵庫県あたり)巡りをしています。東海道を使っていれば、尾張を通過するとき既知の人が誰かれか彼を歓待したことでしょう。北斎が半年逗留して大画イベントを催した翌年1815年、51歳の一九先輩は書肆松屋に逗留、奥三河の鳳来寺に参詣して、翌年松屋善兵衛から『秋葉山・鳳来寺 一九之記行』を出しています。
 先の『四編之綴足』は、『膝栗毛四編』出版直後に書かれず、この時の尾張滞在と重なる時期に出版されたので、単に『膝栗毛』のパロディーとしてではなく、戯作者・十返舎一九と尾張の人たちとの親交がいかに深かったかを示すため、製作されたのではと思います。つまりは、そこに書かれている一九先輩が、駒庄に宿泊し、書肆などと酒を飲みに名古屋城下の繁華街をふらついていたのは事実なんでしょう。
 50代になっても一九先輩は精力的に旅をして、越後(新潟県)の鈴木牧之宅を訪れた翌年1819年にも本居内遠に会いに名古屋へ行っています。その前に信州伊那の書画会に出席したので、そのまま名古屋へ出たのかもしれません。
 本居内遠(うちとお:1792-1855年)は、名古屋の書肆・万巻堂菱屋の倅、馬琴とも親交があり、40歳の時和歌山藩の国学者・本居大平の婿養子になり二代当主となった人物です。一九先輩と会った時はまだ27歳で、万巻堂の主人・菱屋久八になっていたかどうかは不明ですが、本居大平の門人となって国学者を志す以前は、自ら狂歌や戯作を作り、江戸狂歌人との人脈もあり、尾張人の狂歌本を出版してました。後に義父となる本居太平(おおひら)は、伊勢松阪の町人で、本居宣長の門人になり、44歳の時宣長の養子になっています。宣長の実子が失明した後、太平が家督を継ぎ、太平の門人内遠が養子に迎えられ、その家督を継いだという繋がりです。
 一九先輩は、読本や滑稽本ばかりでなく、往来物(実用書、寺子屋などの教科書)も多く執筆していたので、学問の基礎知識を得るため内遠に会いに行ったのでしょうか、それともビジネスの話をしに書肆菱屋を訪問したのでしょうか。
 

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